05.古都の歴史遺産を巡る(天満宮参道~政庁跡)
(実施日)3月29日
(サポーター)杉谷、山崎、原田(写真)、石橋(文責)
気温が20度ほどとなり、今年一番の暖かい日になりました。桜はまだつぼみ状態ですが、気持ちよく、コースを回ることができました。皆さん熱心に聞いて頂き、シビアーな質問もお受けいたしました。ありがとうございます。
かって九州を治め外国使節も訪れた大宰府政庁、国宝の梵鐘が遺る観世音寺、天下三戒壇の一つ筑紫戒壇院、博多崇福寺の源である横岳崇福寺など古の栄華を語る歴史遺産を巡るコースです。
(写真1)出発前の挨拶 西鉄太宰府駅

コース順は近世→中世→古代を逆行してタイムトリップし歴史遺産を巡ります。
天満宮参道→三笠川→旭地蔵尊→横岳宗福寺→推定金光寺跡→市民の森→武藤資頼・資能の墓
→ 観世音寺→玄昉の墓→戒壇院→学校院→大宰府展示館→大宰府政庁跡
<1>まず近世は、江戸末期~明治維新の天満宮参道の宿場町(大町)のご紹介です。
大町は江戸時代には「宰府参り」で栄えた宿場町でありましたが、幕末~明治維新にも、この太宰府で政治の大きなうねりが起こり、更に繁栄した宿場町となりました。公武合体論に押されて尊王攘夷論を唱える三条実朝公を含む高級公家5名が延寿王院へ送られてきました(いわゆる「五卿落ち」)。大町は、この五卿のお付の人や五卿を警護する役人達、および五卿を慕って全国から頻繁に訪れた勤王の志士達によって賑わうことになります。
現在の大町の土産店は、その当時の大きな旅館であり諸藩の指定宿となっていました。
(写真2)薩摩藩の指定宿であった松屋の今

(写真3)長州藩の指定宿であった大野屋の今

(写真4)幕府直轄領西国郡代(日田)の指定宿の日田屋の今

<2>次のご紹介は鎌倉時代から中世末にかけて繁栄した禅宗寺院に関するものです。
横岳崇福寺は禅宗(臨済宗)の僧侶・堪慧により建立されます。そして大応国師などのりっぱな僧侶達によって引き継がれ、その後の禅宗の基となる派閥(大応派)を形成していきます。堪慧から350年後の戦国時代には、横岳崇福寺はかなり大きな寺院になっていましたが、九州制覇を狙う島津軍により焼き払われてしまいます(岩屋城の戦い)。その後、江戸時代に黒田藩により博多の千代の松原に博多崇福寺として再建され、黒田家の菩提寺となります。
旭地蔵尊は横岳崇福寺を開基した堪慧の墓だといわれています。また瑞雲寺は岩屋城の戦いの折、唯一焼け残った子院跡といわれ、敷地内には室町時代のものとされる茶室・庭園や石塔群が残されております。
横岳崇福寺が大きくなった要因のもうひとつは、武藤氏の存在です。武藤氏は鎌倉幕府の御家人で大宰府政庁の小弐職(長官)、鎮西奉行、北部九州の守護として勢力を振るいます。その後、大宰府政庁の小弐職は世襲制となり武藤氏は小弐氏を名乗るようになります。
横岳崇福寺はこの武藤氏に資金提供された堪慧によって開基され、武藤氏の菩提寺となったお寺です。
(写真5)旭地蔵尊

(写真6)瑞雲寺

(写真7)武藤資頼・武藤資能の墓

<3>最後は古代へのタイムトリップで、飛鳥時代・奈良時代・平安時代の太宰府政庁、観世音寺、戒壇院などの紹介です。
飛鳥時代、朝鮮半島状況が緊迫化します。新羅は朝鮮半島の占有をめざし、中国・唐と結束し百済を滅ぼしにかかります。百済と友好関係あった日本の斉明天皇は百済救済のため、軍隊を九州へ南下させますが、朝倉橘広庭宮で亡くなります。その後を引き継いだのが中大兄皇子(のちの天智天皇)です。中大兄皇子は朝鮮に兵を出しますが、白村江の戦いで大敗します。百済は滅び、日本は百済の要人や多くの職人を引き連れ九州に逃げ帰ります。そして唐・新羅の追送を恐れ、主に百済の職人の手によって構築されたのが水城・大野城・基肄城の防衛ラインです。そして博多にあった軍事施設・那の津の宮家をこの防衛ラインの内側に囲い込んだのが大宰府政庁の起源です。
観世音寺は、中大兄皇子が母・斉明天皇の菩提を弔うために発願した寺院です。また日本に三つしかない戒壇院は、僧尼に戒律を授けるために唐の鑑真によって観世音寺の南西角に開山されました。
(写真8)大宰府政庁跡 入口案内板

(写真9)政庁跡 亀井南冥(なんめい)の意思を継いで建てられた太宰府碑

(写真10)観世音寺 講堂

(写真11)観世音寺 碾磑 「天平の石臼」

(写真12)観世音寺 清水記碑

(写真13)観世音寺 国宝の梵鐘

(写真14)戒壇院 正面門

(写真15)戒壇院 本堂前

今回のコースにおいては二つの五輪の塔のご案内をしました。①戒壇院にある鑑真の供養塔と②武藤資頼の墓 です。今回はこの五輪塔について特出してご紹介したいと思います。
「五輪塔の持つ意味」
元来インドから中国を経て伝わった五大思想(宇宙の構成要素)「空・風・火・水・地」を具現化したものが五輪塔であり、人が成仏した姿も表していると言われています。平安時代後期から亡き人の供養塔として建てられ、お墓の原型とも言われています。
一般的に建てられるようになったのは鎌倉時代以降で、当初は密教の影響が色濃く見られましたが、時代が下るにつれて、宗派を超えて受け入れられるようになりました。

五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形=空輪(くうりん)によって構成されています。
① 戒壇院 における鑑真の供養塔(写真16)
上記説明通りの五輪塔です。三角形の笠には「開山大唐国」の文字が彫られているのが見えます。
② 武藤資頼の墓(写真17)
この五輪塔は上の空輪、風輪が欠損しています。また一般形では下から二番目の石は円型であるべきですが、この五輪塔は、隅切(すみきり)五輪塔と云われる珍しい形をしています。
(写真16)戒壇院 鑑真の供養塔

(写真17)武藤資頼の墓

文責:ボランティアガイド 石橋