開催日 2016年10月1日(土)
コース名 太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて(東コース)
 後半

客館跡
 西鉄操車場跡地から大宰府条坊内の客館跡と推察される礎石がでてきました。奈良時代の建物 「大型で格式の高い構造を持つ建物2棟(29.5m.×8.8m), (23.8m.×8.8m)で広い床面積を持ち、大人数の宿泊可能な建物」 の跡が出てきました。また、この一帯から佐波里5点(青銅の高級食器)、木札、漆器、唐三彩、加盤(椀を収納する入れ子になった箱)、白玉帯、奈良三彩など正倉院宝物にあるような高級食器類もまとまって出土しました。格式の高い施設、高級食器から想定されることは外国使節の宿泊、食事のための建物(客館)であった可能性が高いと推察されています、律令制度に於いて「金銀装腰帯」が認められているのは貴族で、大宰府での「白玉帯」着用者は、官位相当制からは大宰帥のみです。古代の労役に関する名簿木簡を転用した井戸枠なども発見されました。
732年に「造客館司」という役所が置かれているので、このころ建てられたと推定されています。ここが太宰府客館として機能したのは732年から9世紀前半と考えられています。佐波理とは銅と錫の合金で出来たもののことです。博多湾岸にあった客館・筑紫館はこのころから鴻臚館と呼ばれたのではないかと推定されています。新羅から輸入されたものと推定されています。墨書木札の中には将棋の駒を書いたものが見つかりました。桂馬、香車、歩兵の字が読み取れました。駒は平安時代後期のものだろうと考えられています。将棋は古代インドが起源といわれています。白玉帯は三位以上の官人しか使えないベルトです。佐波理製の皿は正倉院に700枚伝わっているという。

清明の井
 大きな幹が道路に斜めに突き出た榎の下に井戸はあります。案内板もありますが探しにくいです。
平安時代の陰陽師(おんみょうし)安部晴明が開いたという井戸です。どんな旱(ひでり)にも涸れることはないそうです。出産時にこの水を使うと安産できるという言い伝えがあります。祠の中に置かれた三角形の板状の石は水神を表しています。晴明が大宰府に来たという文献はないことより、清明の霊力にあやかった伝説であろうと考えられています。安部晴明は今昔物語に登場します。この榎は市の天然記念物になっていましたが平成27年の台風で大枝が折れました。

鹿嶋神社
 祭神はタケミカヅチノカミです。菊武文右衛門が祀ったことが起こりと伝えられています。文右衛門は鹿島神道流の極意を授かった摂津の国(兵庫県と大阪府の一部を含む畿内)の武士であったため、尊敬する武神の鹿嶋明神を祀ったと考えられています。現在は榎地区の氏子が祀っています。

隈麿公奥都城(くままろこうのおくつき)
 神道でお墓のことを奥都城(おくつき)といいます。菅公の子供のうち、末の息子(隈麿)と娘(紅姫)はいっしょに大宰府に来ました。隈麿は大宰府に来て、翌年に亡くなっています。お墓のそばにある梅は6弁の花をつける梅です。近所の菊池さんがこの梅を世話しておられます。案内板があります。現在の祠は昭和60年に奉納されました。紅姫は父の死後、四国の土佐にいる道真の長男の大学頭(だいがくのかみ)・高視(だかみ)卿のもとへ行ったとも伝えられています。他の兄たちは駿河、飛騨、播磨へ、妻と成長した娘は都に置かれました。

鶴の墓
 榎社門前の踏み切りの傍らにあります。案内板はありません。古ぼけた石があるのみです。
伝説 「飛騨の匠が木で大きな鶴を造りました。あまりに立派に出来たのでこれに乗って空を飛んでみたくなりました。鶴は唐の国まで飛んだ。唐の国で矢を受けた鶴はどうにか帰ってきて、ここに落下した。匠は鶴をここに手厚く埋葬し飛騨へ帰った。」が伝説として残っています。この話は“まんが日本昔ばなし”でも取り上げられました。鶴が不時着したのは通古賀の鶴ノ屋敷小字鶴畑ともいわれ、これと類似した話も伝わっています。

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鶴の墓


浄妙尼祠: 配所の菅公を慰めるために松の葉に麹餅を盛って差し上げるなどいろいろと世話をしたと伝えられる浄妙尼を祀る祠(ほこら)です。

紅姫の供養塔(板碑): 楓社。風化のためよくわからないが、刻まれているのは阿弥陀来迎図あるいは地蔵菩薩像ではないかといわれています。 鎌倉から室町時代のものといわれています。新国道建設のため昭和50年にここに移設されました。父の死後の紅姫の足取りは不明ですが、四国の土佐にいる道真の長男の大学頭・高視(だかみ)卿のもとへ行ったとも伝えられています。紅姫の墓と伝えられる供養塔が二日市北にもあります。そのため一説にはこの供養塔は梅壺(鉄牛円心の母,弁ノ君ともいう)の墓とも言われています。梅壺は出家して尼になったそうです、

伝説 幸橋 大友義鎮(よししげ)(宗麟)が耳川の戦いで島津に敗れると、筑紫広門は龍造寺隆信に呼応して、秋月種実(たねざね)とともに大友陣営の宝満城(戸次道雪)・岩屋城(高橋紹運)を攻めます。このとき紹運の計略に嵌(はま)った秋月が敗走する時に天満宮を焼いています。秋月種実(たねざね)は神罰を恐れ、火を放った部下を捕らえ切腹を命じて罪を謝しています。天正6年12月(1578年)のことですが、その後天正7年1月にも再び筑紫広門は岩屋城を攻めます。広門の領地と高橋陣営の領地は隣接しているので両陣営の兵士は平時は互いに密接な交際をしています。「今日は心置きなく酒を酌み交わすが明日は戦場で互いに主君のために働きましょう」といって世の無常を嘆いていました。この戦いのときに、高橋陣営の臣、関内記の薙刀の鞘が外れていたために隣にいた武将の顎を傷つけたことから「敵が侵入してきているというのにこれを切ることができないで、かえって見方を傷つけるとは何ということだ」と激しく罵られたことから、関内記は敵方に突っ込んで行った。これを機に城内より一丸となって槍を構えて敵陣に切り込んだ。場所は幸橋あたりで、両側沼田で並進できず両軍わずか十数名を出して戦った。関内記と筑紫方の武将も傷つき戦士した。戦いは高橋陣営の勝利に終わり、関内記の子孫が「嗚呼壮烈岩屋城址」を建てた。(吉永正春、筑前戦国史、p108)

冨永朝堂(とみながちょうどう)(1897-1987): 今回はいくつかの作品が作製された事情・状況について、また朝堂がどんな思いで製作に取り組んだのかについてのお話がありました。水も滴る彫像を制作するには人の命の全てを投げ出さなければ出来ないこと、妥協が許されないこと、作品に命が宿らなければならないことなど芸術家の苦しさ・生き様を知ることが出来ました。
朝堂の紹介: 本名は冨永良三郎。福岡市下赤間町に生まれる。「芸術家 冨永朝堂」は太宰府市民遺産です。冨永朝堂は高村光雲、山崎朝雲とつづく日本の代表的な彫刻家で、「観世音寺奉賛会」の発起人となり観世音寺宝蔵の設立に尽力するなど太宰府を生涯愛した芸術家です。西鉄電車が太宰府まで乗り入れるようになった昭和32年に「太宰府美術懇話会」を結成し、九州歴史資料館の着工が始まった昭和45年には「筑紫美術協会」を誕生させ、会員数は最初から60名を越えていました。昭和47年には「筑紫芸術院」を開設しその院長に就任しています。このころ冨永朝堂、古賀井卿(せいきょう)(書家)、小野茂明(しげあき)(日本画家)は「三仙人」と呼ばれていました。太宰府市観世音寺の地にアトリエ「吐月叢」を構え、坂本繁二郎とともに地方から芸術を発信しました。朝堂は自由な創作活動を展開し、日本木彫界に確固たる地位を築きました。作品の中にその人の個性や人生観が込められていなければならないとの思想のもと、参禅、茶禅を修業しています。その作品は、市内には水城小学校の「校歌レリーフ」、学業院中学校の「宮村翁の勤労の姿」、市役所のロビーの巨大な木彫りのレリーフ「西都大宰府」製作の監修、天満宮の延寿王院前の「御神牛」(御神牛の雛形は市長室にあり)、観世音寺の聖観世音菩薩を納めた「厨子」、天満宮の宝物館の「五才の菅公像」があり、作品を身近に鑑賞することができます。代表作「谷風(こくふう)」は福岡市美術館に収蔵されています。この作品は1939年に開催されたサンフランシスコ万博とその翌年に開催されたニューヨーク万博に日本の代表として出品展示されました。「御神牛」は朝堂88歳のときの作品で、朝堂最後の作品となりました。朝堂は地元では「トンナガ・チョーロー先生」と親しみをもって呼ばれ太宰府の風土をこよなく愛し、湧き出る情熱を作品に表わしました。朝堂の弟子の一人に豊福知徳(とものり)がいます。
朝堂の言葉、「天井板をつらぬいて 天然の素中にかえって行くのか」 *素中とは宇宙のこと

●山崎朝雲は福岡市東公園の亀山上皇像を制作しています。となりに日蓮上人像がありますが、日蓮上人像のほうが背が高かったので上皇像の土台を盛り土にしたそうです。亀山上皇は元寇のときの天皇で、台座に「敵国降伏」の願文が銅版にして填め込まれています。また、聖福寺の18羅漢像のうち16体を製作しています。
仏師で彫刻家の高村光雲は上野の西郷像を制作しています。そして詩人で彫刻家の高村光太郎はその息子になります。宮村翁とは宮村吉蔵のことです。page 169を参照。

●「筑紫美術協会」は、市の依頼で市役所の庁舎入口の壁画(動を表わす)と中央公民館ホールの緞帳(静を表わす)の製作を美術協会として請負い、会員全員で製作に取り組みました。(昭和60年)

参考文献
「太宰府の伝説」、藤田敏彦、財団法人古都大宰府を守る会発行、昭和53年
「太宰府伝説の旅」、大隈和子著、財団法人古都大宰府を守る会発行、平成元年

ボランティアガイド 前田記
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開催日 2016年10月1日(土)
コース名 太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて(東コース)
 前半

今日の参加者は好男性4人でした。太宰府の大通りはよく知っているが裏道を知らないのでどんな裏道があるのか興味深深ということで参加されているようでした。天気予報では降水確率30%ということで前日からの雨も止み全員晴れ晴れとした気持ちで出発しました。しかし途中で2回も雨の洗礼を受けました。小雨程度で収まり午後は太宰府恒例の政庁祭りが開催される日よりとなりました。
 天満宮から冨永朝堂の吐月叢までの道沿いには500mも歩くと1つや二つの伝説伝承が残っている散策路となっています。参加者とスタッフ3名が共に歩きながら古を偲び日常から開放された半日を過ごしました。参加者は今までと異なる太宰府の姿を観られたことでしょう。最後に冨永朝堂の作品を鑑賞し作品に込められた息吹をお聞きしました。下記にはこの道沿いに残る伝説伝承を簡単に記していきます。


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大小の彫像が並ぶ吐月叢でのひとこま



●馬場参道
参道の奥に延寿王院があり、ここに三條実美公ら5卿が起居したこと、松屋の前で、江戸時代の末参道での尊皇派と佐幕派の攻防の状況の跡を偲びました。当時の太宰府では桶屋が儲かった、酒とお茶と砂糖の需要が増えたとのことで生き生きとした参道が浮かび上がりました。

維新の庵 松屋: 当時の松屋は旅龍屋で、主人は勤王家として知られていました。そのため勤皇の志士たちがよく集まっていました。主人の栗原孫兵衛は福岡や薩摩、長州の志士と交流があり、彼らをこっそりと支援していました。
庭の歌碑には月照の歌
「言の葉の 花をあるじに 旅ねする この松かげを(は) 千代もわすれじ」と刻まれています。

小鳥居町の恵比寿さま: 太宰府市内には31体の恵比寿さまが祀られています。天満宮の門前町(三条、連歌屋、馬場、大町、新町、五条)では、12月3日早朝に7ヶ所の恵比須さまをお詣りする「えびす七とこまいり」の風習があります。「えびす七とこまいり」は2日の午後3時から飾り付けが始まり、3日の午前6時からお参りが始まり午後には撤去されます。小鳥居小路の恵比寿さまがセンターで、ここで神酒やお札がもらえます。

岩踏川、思川、白川、御笠川
本来この川は御笠川ですが、ここより上流の三条あたりから連歌屋あたりまでを岩踏川(岩淵川)と呼んでいました。五条あたりでは思川という名が残っています。五条から連歌屋までを思川と呼んでいたようですが、ここには白川地区があり白川と思川が重なっていたかもしれません。はっきりした枠はありません。
岩踏川を詠んだ歌に、「うみ山を夕越来れは御笠なる石踏川に駒なつぬなり」 万代集 為頼(ためより)
紫式部の伯父(父母の兄)にあたる藤原為頼(ためより)の歌が岩踏橋のたもとにある岩淵川の石柱に刻まれています。この歌がいつ詠まれたかははっきりしませんが、957年ごろ父雅正に伴って豊前へ下向する途中に太宰府を通ったのかもしれないということで、それであれば為頼(ためより)は17-21歳であったと推定されています。為頼(ためより)は歌人でした。
昔は岩踏橋周辺は大きな岩が岸辺にあり、川中も岩がごろごろと転がり清流が音をたてて激しく流れ、子供やお母さん達の集まる社交場であったといわれています。吉嗣拝山の『太宰府二十四詠』にも名勝地として描かれています。
つまり上流の北谷から北谷川、松川(まつごう)、三浦橋から三条までを岩淵川、連歌屋から岩踏川、五条あたりを思川、観世音寺あたりを白川、それより下流を御笠川、石堂川となりますが、時代とともに呼び方が変わっているといったほうが良いかもしれません。

夜泣き石地蔵堂: 宰府5丁目にある。平たい石があり、その上に夜泣きの赤ん坊を寝かせると夜泣きがなおるといわれていました。

三浦の碑と構口
 三条口の構口は飯塚方面からの入り口である三条のバス停「老人ホーム双葉」の近くにありました。ここら当りは岩踏(あるいは岩淵)と呼ばれていました。明治時代、天満宮安楽寺に参詣したおりには、ほとんどの人が光明寺(渡宗天神),花園(現在の水月庵)、伝衣塔、岩踏(岩淵)の三浦の碑に立ち寄っていたと云われています。
三条の高砂橋(三浦橋)のほとりと五条橋のほとりに三浦の碑があります。三浦の碑は、伊勢の二見浦、紀伊の和歌浦、筑前の箱崎浦の砂を持ってきて、御笠川を清めた行事の記念碑として建てられています。「さいふまいり」が流行したのは天神信仰が流布した江戸時代以降のことになります。
高砂橋の側の「三浦潮井碑」は、碑文から明治13年(1880年)に建てられていますので、以前のものが再造されたと考えられています。この三浦の碑は洪水で流されて行くえ不明になっていたが2003年の洪水で発見されました。

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高砂橋のほとりの三浦の碑


構口(かまえぐち)は4ヶ所ありました。五条小橋(五条口ともいう)、三浦橋(三条口)、五条橋(高橋口ともいう)、溝尻の4ヶ所です。構口とは江戸時代に宿場の出入り口に造られた土塀で、防衛的機能をもっていたと考えられています。二日市方面からの入り口は五条口になります。五条の五差路になっている所に建っている梅大路の道標(追分石)から五条小橋を渡って右側のビルの一角に庚申天(1781年造)と板碑があります。この道路沿いに構口がありました。現在は構え口の遺構も残っていません。

「従是」の石柱は、右はどんかん道へ、左は日田方面へ向うことを示しています。 明治11年に建つこの碑は、一説には西南戦争で各地から集められた官軍兵士のために建てられたといわれています。

安行社
菅原道真に付き添って太宰府まで下って来て、道真の廟堂を建立した。その後、その末裔が天満宮の宮司職を務めています。

庚申塔と猿田彦大神の合碑: 庚申塔と猿田彦大神が1つの石碑の裏表に刻まれている珍しい石碑です。

猿田彦神: 古事記神代の巻に、天孫降臨(天照大神の命を受けて国土統一のため高天原から日向国の高千穂峰に下る)のおりその道案内をされ、無事にニニギノミコトを大八州(わが国)に導かれた神様と書かれています。その高徳により、「導きの神」、「道開きの神」、「道案内の神」となりました。猿の代わりに猨が使われることもあります(佐野浦にある)。猨は大きな猿、手なが猿のことです。

庚申塔: 中国の道教に、「人間の身体のなかに三尸(さんし)という虫がいて、60日ごとに回ってくる庚申の夜、人間を早死させようと、人間が眠っているすきに抜け出して天帝に悪口を告げる。天帝はそれを聞いて人の寿命を決めるが、この日、身を慎んで徹夜すれば三尸は上天することができず、長生きできる」という説があります。これが奈良時代に伝来し、平安時代にさまざまな民間信仰と結びついて広まっていったといわれています。江戸時代には農業神と習合した猿田彦大神(申にちなんで生まれたと思われる)、あるいは道岨神と習合して農耕神として信仰された庚申信仰が全国的に広く盛んになりました。また、青面金剛(しょうめんこんごう)は密教系の庚申信仰で、「庚申尊天」あるいは「帝釈天」と刻まれています。庚申講が組織され、多くの庚申塔や庚申塚が建立されたり、講が行われたりしました。民間信仰には経典教義もないので願望のおもむくままにいろいろのことが変っていきました。庚申の夜は、猿田彦の掛け軸を掛け、掛け軸の前に榊、灯明、賽銭、庚申団子を供え、拍手をうって礼拝していたそうです。さらに人々が集まり徹夜をするためにいろいろな遊びごと(詩歌つくり、碁、双六など)が行われたりし、次第に集落の親睦会になっていきました。(ちくしの散歩その他より)

「梅壺侍従蘇生碑」
 光明寺の横を流れる川中に「梅壺侍従蘇生碑」があります。天満宮の神官に中務頼澄(なかつかさよりずみ)という人がいました。京に上った折に梅壺という京女と懇意になり二人の間に梅千代という男の子が生まれた。頼澄が太宰府へ帰ったあと、梅壺は梅千代を連れて太宰府まで下ってきた。頼澄の正妻は夫を梅壺に会わせまいと決め、母子を太宰府から追い返そうとする。このような仕打ちに悲観した梅壺は子供を残して藍染川に身投げする。梅千代が母の遺体に取りすがって泣いているところへ頼澄が通りがかり、事の成り行きを知った頼澄は一心に梅壺の蘇生を天満天神に祈るのでした。天神様が現れて不思議なことに息を吹き返したということです。さらに詳しく述べますと、
梅壺侍従は太宰府に来て宿をとり、神主宛てに手紙をしたため手紙を宿主に頼む。宿主が神主の家を訪ねて手紙を渡すと妻は宿主の話を聞き、「さてもさても腹立ちや」と神主に偽の手紙をしたためて宿主にいう。「いそぎ女房も子も追い返せ」と、宿主が帰ってそのことを告げると「この子を父に見せ、跡をも継がせばやと思いてはるばる来るに、孤児となす事の悲しさよ」といい藍染川に身を投げてしまう。身投げした梅壺侍従の有様は「顔色は草葉に色、眠りて瞼を開くことなし 紅顔は消えて黒髪は乱れ草根に纏わり、まゆずみも消えて面影も亡き世の果ての有様」であった。かけつけた神主はあまりの不憫さに幣帛(へいはく)を捧げて一心に祝詞をあげると梅壺は蘇生した。やがて梅壺(紅の君ともいう)は尼となり法名(ほうみょう)を如海大姉と称した。梅千代は長じて仏門に入り鉄牛円心と名乗って光明禅寺を建てる。
後段の説明は謡曲「藍染川」のあらすじです。時が経って梅壺は尼に、梅千代はお坊さんになりました。このお坊さんが光明禅寺を建てた鉄牛円心和尚であるといわれています。
 江戸時代中期の「筑紫紀行」には別の伝説もあります。それは、菅公が都に居られたときに召し使っていた女が、菅公が筑紫に下ったのち後を慕って下ってきたが、すでに菅公は亡くなっておられたので悲しみのあまりこの川に身を沈めたという。

伝衣塔(でんえとう)
 鎌倉時代の中ごろ、太宰府の横岳崇福寺に円爾(えんに)という坊さんが住んでいました。ある夜、円爾(えんに)のもとに菅公が現れ禅の教えを請われた。円爾(えんに)は自分にはまだその力量はないので、師である宋の仏鑑(ぶっかん)禅師を紹介した。菅公は一夜にして中国に飛び、仏鑑禅師に教えを請い、たちまち悟りを開かれ、その証に衣をさずけられ持ち帰りました。菅公はすぐに円爾(えんに)のもとに現れその衣を託したと伝えられます。それから30年後、円爾(えんに)の後を継いだ博多承天寺の鉄牛円心和尚のもとに菅公が現れ、預けた衣を一ヵ所に収めて祀ってほしいといわれた。そのお告げのとおり衣を収めた場所が伝衣塔であり、光明禅寺の起こりであると伝えられています。
日中戦争のさなか出征兵士に贈る千人針にこの伝衣塔の苔をむしり、縫いこんだという。菅公が無事に帰ってきた故事にちなんでのことであろう。

どんかん道: 天満宮の神幸祭のときに通る道です。天満宮から榎社までの道です。

西正寺(さいしょうじ): 浄土真宗本願寺派。岩屋城の戦いの高橋紹運方の戦死者の菩提寺です。宰府1丁目1-25にあります。

制札場の跡: 西正寺の東側に制札場がありました。制札場には宿場町内の籠や荷物の運搬料などの料金が書かれており、厳しく取り締まれていました。そのため外部の人や外国人も江戸時代は安心して国内旅行ができたそうです。

井上哲次郎生誕地: 五条で生まれる。神牛塚からどんかん道をさらに天満宮の方へ進み右折してすぐの右側に明治時代の哲学者井上哲次郎(1855-1944)の生誕地の碑があります。井上哲次郎の哲学体系は「現象即実在論」とよばれ、「認識と実在との関係」(1900年)にその大意が示されています。井上哲次郎が東京帝国大学文科大学長のときラフカデイオ・ハーン(小泉八雲、講師)が解雇されるということがあり二人の仲は不運だったそうです。解雇の原因としては外国人の待遇は総長と同額であったこと、外国人には長期有給休暇があったこと、日本の文教政策の転換などが考えられています。その後、ハーン一人分の給料で夏目漱石ら3人を雇用することになりました。ハーンは熊本第五高等中学校赴任の翌年に太宰府を訪れています。哲次郎の師である中村徳山(号は巽軒(そんけん))は「都成塾」を太宰府の自宅で開いていました。

五条一丁目の石造品: 地元ではオダイニッサマと呼んでいたそうです。ここら当たりは1500年代の戦いのときの戦場になり、弔いのために多くの石仏が建てられていました。死者を弔うために禅宗の寺・臨泉庵がありました。近隣の石仏を集めた祠はいくつかあります。案内板はありません。

中村酒屋: 横町に中村酒屋があり、昭和25年まで銘酒「咲くや此の花」を製造していました。その後、「大吟」という酒屋、つづいて「太田屋醤油店」が入っていましたが、昭和58年にその家は湯布院の湯布院館へ移設されました。案内板があります。

中村徳山(1818-)の「都成塾」の跡: 案内板があります。 五条に生まれた漢学者。私塾「都成塾」を五条に開き、近隣の師弟に漢学などを教えていました。太宰府小学、甘木中学思川分校(戒壇院にあった)の教師でした。門下生に井上哲次郎、萱島秀峰などがいます。

神牛塚: 菅公の亡骸を安楽寺まで運んだ牛も帰りがけにここでぱたりと倒れ息をひきとったということです。道際に大正14年に建碑された新しい石碑があります。この石碑は丑年生まれの元太宰府町長が丑年生まれの人々の還暦祝いとして碑を立てたものです。新しい石碑の奥にある何も彫り込んでない自然石の碑が元の神牛塚です。「筑前国続風土記拾遺」に、「牛塚、中町人家の前にあり。野石で俗に菅神の神牛の斃れたるをここに葬るという」と書いてあります。

宝満宮石神: 五条の四ツ角から5軒めぐらいのところに大きな樫の木がありますが、その下の大岩(一部が露出している)が宝満宮石神です。その上に板碑が掛けてあります。竈門神社の頓宮でした。宝満宮のお旅所とも呼ばれています。ここら五条は昔は大都会でした。大勢の人が集まるため、宝満宮まで行かないでここで宝満宮のお参りができるように頓宮がおかれていました。年に一度宝満宮から宮司さんがお祀りに来られます。

金掛け(かねかけ)の梅: 鎌倉時代の古川家は天満宮に関係の深い商工業者六座の一つ米屋座でした。日照りが続き人々は食べるものもなくなり、この惨状を目のあたりにした古川家の当主は自分の全財産を投げ出し、飢えた人々を救ったといわれます。反対に自分の家は家運傾き生活に困るほどであったという。そこで天神様に家運の再興を一生懸命祈ったところ、ある夜、当主の枕元に白髪の老人が現れて、「庭の梅の木に黄金の入った袋を掛けておく故、夜が明けたらこれを取り、経済を立て直せ」と告げられたという。それから再び古川家は栄えたという。三条実美が金掛けの梅にちなんで詩歌を詠んでいます。
「梅ヶ枝にかかる黄金の花もまた 根にや帰りてや咲き出ずるらむ」 三条実美公
ここは、東の京極にあたります。そのためここ左郭12坊の溝の発掘調査では、牛、馬、犬、猫の死骸が見つかっています。猫の死骸が出たことより、平安時代に猫がいたことがわかりました。当時、猫がいたところは全国で2ヶ所しか見つかっていないということです。

古川家の神木: 太宰府郵便局前の2本のムクノキは古川家の神木でした。

やんぶの墓: 五条駅前にある佐賀銀行の玄関右側にあります。 山伏の行き倒れの墓と云われています。山伏にとっては、ここが宝満山での修業の出発地点でもありました。住民の方々のお供えが今も絶えません。案内板はありません。当時の山伏は諸国を行脚して地方の事情に精通していました。

血方持(ちけもち)観音
 どんかん道のそば、榎の根元に祀られています。醍醐天皇(897~930在位)の時代、府中宇佐町の役人宮成(みやなり)某の奥さんが婦人病で苦しんでいるある夜、菅公さまのお告げがあり、薬の作り方を教えられたそうです。そのとおりに薬を作り服用して、元気になったことより古川家の家伝薬になりました。奥さんが亡くなってから墓を建てたところ、婦人病に悩む人がお詣りするようになったということです。

後半へつづく


ボランティアガイド 前田記
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開催日 2016年9月25日(日)
コース名 天神様のご心霊に捧げる神事千灯明


朝からの小雨模様で心配されましたが雨も降らずに無事開催することが出来ました。
秋のコース全23コース中夕方から開催される唯一のコースです。
午後5時半に西鉄五条前に集合しどんかん道を通り天満宮の参道「維新の庵」松屋までのコースです。
総勢22名で案内役は太宰府市役所文化財課の高橋さんにお願いしました。
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同日には太宰府市で観世音寺・政庁跡など各地域で「古都の光」の催しが開催されています。天満宮では千灯明の神事が開催されました。


*五条駅界隈
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梅大路道標 宰府参りの街道を示す大きな石碑です。

やんぶの墓 山伏の行き倒れの墓と言われています。山伏にとってここが宝満山での修行の出発点でもありました。 

            
*五条交差点から天満宮駐車場への道
金掛天神 私財を投げ出して飢饉を救った古川家が困窮した折、夢に老人が現れて庭の梅の枝に黄金の袋を掛けておくと告げて、子孫を救ったと伝えられています。
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神牛塚 道真公の亡がらを運んだ牛は、その帰り力尽きてここで倒れて死んだので、人々が憐れんで供養した所と伝えられています。

中村酒店 横町に中村酒店があり昭和25年まで銘酒「咲くや此の花」を製造、昭和58年この家は湯布院に移設されました。

井上哲次郎 明治時代の哲学者井上哲次郎の生誕地の碑があります。東京大学の初代の哲学教授で日本の倫理、道徳の基礎体系を構築しました。

制札場 藩の法令などを告知するために制札場が置かれておりた宿場町内の籠や荷物の運搬料などの料金が書かれており厳しく取り締まられていました。

西正寺 1586年島津と岩屋城で戦い玉砕した高橋紹運以下763名の霊を弔う菩提樹。玉砕の前夜、紹運は部下の藤内重勝に因果を含め脱出させ菩提を弔うよう頼みました。藤内は僧侶となり西正寺を建立し今も毎年7月27日には子孫が集まり法要が行われます。
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*参道
維新の庵松屋 当時の松屋は旅籠屋で勤王屋として知られており主人の孫兵衛は福岡や薩摩、長州の勤皇の志士達と交流が深く彼らを支援していました。薩摩藩の定宿として大勢の勤皇の志士たちが出入りしていた。大野屋は長州藩、泉屋は土佐藩の、日田屋は天領の定宿でした。
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*千灯明 
25日夜心字池の周りに千本の灯明がともされます。池の上には舞台が設けられ、神楽が舞われます。
午後6時過ぎ制札場付近で暗くなって持参した提灯に明かりを灯し、通りに置かれた提灯の中を歩いて行くというほっかりとした気持ちも味わうことが出来ました。
「維新の庵」松屋さんではよもぎの梅ケ枝餠のいただき午後7時過ぎに解散しました。
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このコースに参加された皆様のご協力により無事終わることができました。ありがとうございました。特に市役所の文化財課高橋様、「維新の庵」松屋様には特別のご配慮いただきありがとうございました。

ボランティアガイド 最上記
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開催日  2016年9月22日(祝木) 
コース名 「特別企画  日本遺産って何ですか?」


昨年度文化庁から太宰府遺跡群が「西の都太宰府」として「日本遺産」に認定されました。
当会ではそれを記念して 「日本遺産」って何だろう?をテーマに多くの皆さんに知ってもらおうと特別企画として当市教育委員会文化財課の井上信正さんに解説をお願いし秋のコースのトップに設定しました。同氏は 文化財行政の中軸でもあります。

集合地の西鉄二日市駅にお客様25名スタッフ13名都合38名の大部隊が集まりました。
当日は生憎曇り空ながら 午前中は何とか・・・と願いながら総括説明を聞きました。
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日本遺産とは?単体遺跡ではなく相互に関連するストーリーが対象との今日の全体遺跡の概略説明があり、次の客館跡地に進みました。
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看板を説明しながら鴻臚館との関連・建物配置等からの推測、その意味で又まだ未発掘の線路西側への期待が持たれます。  
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次は王城神社、大宰府の条坊制は長安方式で政庁が北の中心にありますが周礼方式では当地が中心になり、その真南が基山となる由、
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あと付近にある飛梅の原木と伝承を聞いて
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榎社に引き返し左遷された道真公が足かけ3年過ごしたと言われる南館の説明を受けました。
場所は朱雀大通りに面し条坊でいえば4区画(約180m×約180m)の面積を持つ屋敷跡で、幽閉されたと言われていますが、結構広くて良い場所にあった様です。

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往時の朱雀大路を歩き、御笠川を渡ったところにあった朱雀門の礎石を見た後、蔵司の建物跡に進みました。
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蔵司は兎に角 謎の多い区画で地名から倉庫跡だろうと言われてきましたが、今回発掘された建物の用途もまだ結論が出ていません。
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今回井上説では政庁の賓客に対する供応の場所だったのでは・・・との説を拝聴しました。少なくともこの付近の建物が倉庫ではないのは確実な様です。 只 供応施設なら食器類・厨房器具類の発掘が待ち遠しいところです。九歴さんの発掘はまだまだ続きそうなのでその成果を期待しましょう・・・。
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最後は政庁の南大門・中門を経て、往時の玄宗皇帝の使者に倣い政庁中央を歩き
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正殿跡に全員集まり仕上げの解説を拝聴しました。同時に皆様から自然発生的に井上氏に対し感謝の拍手が贈られました。
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最後は「歩かんね太宰府」の恒例である正殿での霊気体感を冨永理事長の音頭で行い正殿から吹き上がる大野山の霊気を胸一杯吸って頂き、今日最後シメとさせて頂きました。皆様 如何でしたか?お疲れ様でした・・・・。
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2016.9.22 ボランティアガイド 市川記
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