16コース 最澄と太宰府(4月26日)

朝、9時に集合場所の竈門神社駐車場に到着し、森林が美しい宝満山を見ると春を表現する「山笑う」という季語に迎えられたように感じながら、「最澄と太宰府」コースは、お客さん8名とガイドの原田さん、スタッフ4名でその駐車場をスタートしました。
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最初に、内山公民館で、太宰府における最澄ゆかりの場所(大黒寺跡、玄清法印、竈門山寺跡、薬師堂跡、伝教大師窟、根本中堂、北谷の地蔵菩薩など)の説明を聞いて、30分ほど山を登り六所宝塔につきました。
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心地よい風と眺望のなか、ガイドさんの「最澄は法華経の功徳により豊かな王道楽土を実現しょうと六ヶ所に宝塔を立てた、その一つがここにあります」との解説があり、当時の状況を思い浮かべながら最澄仏教の一端に触れました。
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次に下山し唐へ向かう希望に燃ええる最澄の銅像に合掌し、妙香庵へ来ました。庵主さんが、「伝教大師(最澄)と教え」について、庵主さん手作りのテキストで解説され、最後に「世界が激しく揺れ動いている今こそ、一人ひとりに一隅を照らす生き方が求められている」と語られました。
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私たちは、今こそ最澄の教えを今に活かされなければならないのではと感じた一日でした。

 
2012年5月3日
冨永

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 4月1日(日) 新年度のスタート日にセットされた超健脚者を対象の「脊梁山脈縦走」コースです。
天候は晴れ、ただ予想最高気温14度と3月中旬並で吹き付ける風は冷たさを感じる朝でした。
参加者は24名(男性12名、女性12名)、スッタフ5名(特別参加の財津さんを含む)の計29名で、南山手団地をスタートしました。
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 まずは井手地区にある「山の神」に参加者全員で無事を祈願して、牛頸山山頂を目指しました。
途中、牛頸窯跡群では当時の須恵器の現物が見つかり少し騒々しくなったり、山道の傍らに聖観音様を祀る祠で説明があったり、少し脇道に入り博多湾や太宰府方向が一望できる場所で眼下に広がる景色を堪能したり・・と上りの山道が続く中を適宜立ち止まる時間を取りながら1100前には黄色の旗が強風で音を発てている牛頸山頂(標高448m)に到着しました。
山頂では博多湾から直接吹き付ける北風が強く、更に冷たく感じましたが全周に広がる絶景に感動しました。

 その後少し歩いてから昼食休憩を取り、黒金山山頂を目指します。
ここから本格的な脊梁山道に入り、所々アップダウンの傾斜が激しく傍らのロープの助けが無いと歩行困難な山道や急斜面を横に歩行する高等テクニックが必要な山道等まさにバラエティに富んだ超ハードな山道歩行が続きましたが、途中山道の分岐点等でガイドの小沼さんが軽妙な説明をする内に呼吸を整えて1400頃に黒金山山頂(推定)に到着しました。

 そして後は下りの山道ですが結構厳しくロープか樹木に掴まっていないと転がり落ちる程の傾斜でした。平地に到着後には佐野浦という集落があったと云われる猿田彦の石標等に興味津々でした。
本コースは行程の5分の4が山道走行でしたが、そんな中に樹木の枝や地表から透き通った緑色の新芽の息吹に癒されたり、また森林の中に指す太陽光線の温かみに触れたりでき、気持ち良く最後の大佐野池に到着することができました。
これも参加者の皆さんのご協力と「山の神」のご加護のお陰とスタッフ一同感謝致しています。ほんとうにありがとうございました!!

3月24日(土)の様子はこちらをご覧ください!!

4月1日(日)の様子はこちらをご覧ください!!

ガイド: ボランティアガイド 小沼
レポート: ボランティアスタッフ 嘉村
写真撮影: ボランティアスタッフ 神吉

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古都の歴史遺産を巡る(天満宮参道~政庁跡)

(実施日)3月29日
(サポーター)杉谷、山崎、原田(写真)、石橋(文責)

 気温が20度ほどとなり、今年一番の暖かい日になりました。桜はまだつぼみ状態ですが、気持ちよく、コースを回ることができました。皆さん熱心に聞いて頂き、シビアーな質問もお受けいたしました。ありがとうございます。
 かって九州を治め外国使節も訪れた大宰府政庁、国宝の梵鐘が遺る観世音寺、天下三戒壇の一つ筑紫戒壇院、博多崇福寺の源である横岳崇福寺など古の栄華を語る歴史遺産を巡るコースです。

(写真1)出発前の挨拶 西鉄太宰府駅
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コース順は近世→中世→古代を逆行してタイムトリップし歴史遺産を巡ります。
   天満宮参道→三笠川→旭地蔵尊→横岳宗福寺→推定金光寺跡→市民の森→武藤資頼・資能の墓
   → 観世音寺→玄昉の墓→戒壇院→学校院→大宰府展示館→大宰府政庁跡
<1>まず近世は、江戸末期~明治維新の天満宮参道の宿場町(大町)のご紹介です。
 大町は江戸時代には「宰府参り」で栄えた宿場町でありましたが、幕末~明治維新にも、この太宰府で政治の大きなうねりが起こり、更に繁栄した宿場町となりました。公武合体論に押されて尊王攘夷論を唱える三条実朝公を含む高級公家5名が延寿王院へ送られてきました(いわゆる「五卿落ち」)。大町は、この五卿のお付の人や五卿を警護する役人達、および五卿を慕って全国から頻繁に訪れた勤王の志士達によって賑わうことになります。
現在の大町の土産店は、その当時の大きな旅館であり諸藩の指定宿となっていました。

(写真2)薩摩藩の指定宿であった松屋の今
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(写真3)長州藩の指定宿であった大野屋の今
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(写真4)幕府直轄領西国郡代(日田)の指定宿の日田屋の今
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<2>次のご紹介は鎌倉時代から中世末にかけて繁栄した禅宗寺院に関するものです。
 横岳崇福寺は禅宗(臨済宗)の僧侶・堪慧により建立されます。そして大応国師などのりっぱな僧侶達によって引き継がれ、その後の禅宗の基となる派閥(大応派)を形成していきます。堪慧から350年後の戦国時代には、横岳崇福寺はかなり大きな寺院になっていましたが、九州制覇を狙う島津軍により焼き払われてしまいます(岩屋城の戦い)。その後、江戸時代に黒田藩により博多の千代の松原に博多崇福寺として再建され、黒田家の菩提寺となります。
 旭地蔵尊は横岳崇福寺を開基した堪慧の墓だといわれています。また瑞雲寺は岩屋城の戦いの折、唯一焼け残った子院跡といわれ、敷地内には室町時代のものとされる茶室・庭園や石塔群が残されております。
 横岳崇福寺が大きくなった要因のもうひとつは、武藤氏の存在です。武藤氏は鎌倉幕府の御家人で大宰府政庁の小弐職(長官)、鎮西奉行、北部九州の守護として勢力を振るいます。その後、大宰府政庁の小弐職は世襲制となり武藤氏は小弐氏を名乗るようになります。
 横岳崇福寺はこの武藤氏に資金提供された堪慧によって開基され、武藤氏の菩提寺となったお寺です。

(写真5)旭地蔵尊
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(写真6)瑞雲寺
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(写真7)武藤資頼・武藤資能の墓
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<3>最後は古代へのタイムトリップで、飛鳥時代・奈良時代・平安時代の太宰府政庁、観世音寺、戒壇院などの紹介です。
 飛鳥時代、朝鮮半島状況が緊迫化します。新羅は朝鮮半島の占有をめざし、中国・唐と結束し百済を滅ぼしにかかります。百済と友好関係あった日本の斉明天皇は百済救済のため、軍隊を九州へ南下させますが、朝倉橘広庭宮で亡くなります。その後を引き継いだのが中大兄皇子(のちの天智天皇)です。中大兄皇子は朝鮮に兵を出しますが、白村江の戦いで大敗します。百済は滅び、日本は百済の要人や多くの職人を引き連れ九州に逃げ帰ります。そして唐・新羅の追送を恐れ、主に百済の職人の手によって構築されたのが水城・大野城・基肄城の防衛ラインです。そして博多にあった軍事施設・那の津の宮家をこの防衛ラインの内側に囲い込んだのが大宰府政庁の起源です。
 観世音寺は、中大兄皇子が母・斉明天皇の菩提を弔うために発願した寺院です。また日本に三つしかない戒壇院は、僧尼に戒律を授けるために唐の鑑真によって観世音寺の南西角に開山されました。

(写真8)大宰府政庁跡 入口案内板
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(写真9)政庁跡 亀井南冥(なんめい)の意思を継いで建てられた太宰府碑
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(写真10)観世音寺 講堂
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(写真11)観世音寺 碾磑 「天平の石臼」
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(写真12)観世音寺 清水記碑
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(写真13)観世音寺 国宝の梵鐘
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(写真14)戒壇院 正面門
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(写真15)戒壇院 本堂前
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 今回のコースにおいては二つの五輪の塔のご案内をしました。①戒壇院にある鑑真の供養塔と②武藤資頼の墓 です。今回はこの五輪塔について特出してご紹介したいと思います。

「五輪塔の持つ意味」
 元来インドから中国を経て伝わった五大思想(宇宙の構成要素)「空・風・火・水・地」を具現化したものが五輪塔であり、人が成仏した姿も表していると言われています。平安時代後期から亡き人の供養塔として建てられ、お墓の原型とも言われています。
 一般的に建てられるようになったのは鎌倉時代以降で、当初は密教の影響が色濃く見られましたが、時代が下るにつれて、宗派を超えて受け入れられるようになりました。
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 五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形=空輪(くうりん)によって構成されています。

①  戒壇院 における鑑真の供養塔(写真16)
 上記説明通りの五輪塔です。三角形の笠には「開山大唐国」の文字が彫られているのが見えます。

②  武藤資頼の墓(写真17)
 この五輪塔は上の空輪、風輪が欠損しています。また一般形では下から二番目の石は円型であるべきですが、この五輪塔は、隅切(すみきり)五輪塔と云われる珍しい形をしています。

(写真16)戒壇院 鑑真の供養塔
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(写真17)武藤資頼の墓
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文責:ボランティアガイド 石橋
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