開催日 2016年12月1日(木)
コース名 古都大宰府の紅葉名所と文学の道を歩く


このコースは、「紅葉の名所」竃門神社、お石トンネル前後、天満宮境内、最後に絶景の光明寺までを辿りながら、道中の歌碑・句碑並びに由緒を楽しんで頂くコースです。
曇りがちながら予報では快晴に向かう報に期待を込めて、定刻には西鉄太宰府駅でお客様14名・スタッフ4名全員揃い、今回は「筑紫野市から生涯学習課」の皆様9名を迎えての総勢です。
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まほろば号まで時間があったので、参道の松屋さん他を少し解説後、同バスで竃門神社に向かいました。
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紅葉は今が盛り!この最高の舞台でガイド役の林きよみさんが、皆さんを前に、「宝満山及び竃門神社」の由緒から始まり周辺の歌碑の説明に入りました。
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新装なったご本殿・及び新社務所を前に、解説にも一段と熱が入り、ご祭神玉依姫・杖術の祖夢想権之助・清少納言の父清原元輔の歌碑等、その時代に想いを馳せました。
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社務所裏の見晴台から望む、太宰府・筑紫野の展望は紅葉の葉陰の向こうに一段と映える眺めでした。同山で最も有名な和歌は次の句でしょう。
 「春は萌え 秋は焦がるる竃門山 かすみも霧も けぶりとぞみる」
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すこし下に降りて、天台宗にとって大切な「妙香庵奥の院」へ移りました。
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約1200年間絶やすことのなく燃え続ける「蓮華のともし灯」を一同拝みながら、開祖伝教大師最澄が唐からの帰国時、上陸した新宮町に伝承の残る横大路家の「ともし灯」をここに拝観出来る幸せを感じながら、最澄37才時の5M余の大きな立像の前で参拝しました。

後、お菓子の「石村萬盛堂」の工場を見学、萬盛堂さんの好意で名菓「鶴の子」の製造過程の説明と出来立ての柔らかい「鶴の子」を振る舞われました。

萬盛堂さん、それとお世話頂いた大和恵子さん、お見送りまでして頂き、どうも有難うございました。

次は通称「お石トンネル」。
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前後の紅葉を愛でながら、「秋山明子」・「中村汀女」の句碑を拝見、続いて「吉井勇」、「富安風生」「荻原井泉水」の歌碑について林さんの名調子が続きます。流石に説明内容が深く、時間があればいつまでも続いていたことでしょう。
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今日の「梅ケ枝餅」は「お石茶屋」。
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当茶屋はその昔、筑前3美人の一人と言われた女将の「お石しゃん」の血を引く古川さんが、現在経営されています。やはり美人です・・・。
往時は「高松宮殿下」「麻生太吉」「長谷川一夫」「犬養毅」「緒方竹虎」「佐藤栄作」最近では「さだまさし」等が訪れています。

あと俳句の「芭蕉」「河野静雲」「高浜年尾」の句碑に進み、最後に「天満宮」では道真公の残した最も有名な「東風吹けば・・・・」の歌碑を楽しみました。
境内は文学に縁の深い「道真公」に因み、和歌・俳句の碑が各所に配置され、歌碑のみでも一日ゆっくり楽しめます。
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最後に「九州の苔寺」と言われる「光明禅寺」で同寺の由来と「仏光石庭」、奥の「一滴海庭」で絶景の庭を楽んで頂きました。
紅葉まっただ中に映える「枯山水の庭」は年間でも最高の時期、この景観には、皆さん恐らく満足頂けたであろう!と確信しながら、今日のコースをお開きとしました。
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ボランティアガイド 市川記
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開催日 2016年11月20日(日)
コース名 日田往還 博多から水城東門を歩く


朝8時博多の呉服町バス停(大島眼科前)に25名集合、歩くには絶好の曇り空、正にウオーキング日和となりました。呉服町から福岡市埋蔵文化財センターは当会員の嘉村さんがガイドです。金屋小路・北船 魚町と名の通り職人商人の街が続く。東町から魚町に向かう入り江が入っていたので魚町となずけられた地名が残っている。
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博多千年門
博多を訪れた人を歴史的文化財が多く残る寺町エリアへ導くウエルカムロードとして平成26年3月完成。博多と大宰府を結ぶ官道があり博多側の入り口として辻堂口門と呼ばれていた門が存在していた。博多千年門の書は太宰府天満宮の西高辻宮司のもので樹齢千年の樟は天満宮のご神木が使われています。
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聖福寺
栄西が1195年建立した日本最初の臨済禅宗の禅窟。

東長寺
弘法大師創建の日本最古の零場 黒田家墓所・福岡大仏・五重塔などの見所。

妙楽寺
開山は月堂宗規・博多商人とも関係が深く貿易の一大拠点神屋宗湛の墓あり。

承天寺
聖一国師が開山し山笠。うどん・そば・博多織の発祥の地として知られる。

板付遺跡
縄文時代後期から弥生時代後期を中心とする遺跡 竪穴式住居・水田が復元されている。弥生時代初期の水田発見はこの板付遺跡が日本で初めてのことで縄文水田と言われている弥生時代を実感できる史跡公園として整備されている。
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弥生館で詳しく説明をしていただきました。
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福岡市埋蔵文化財センター
バックヤードには弥生時代の甕棺約1600基保管。特別収蔵庫では保存処理部門では木器保存処理として木片・金属を24度湿度60%に保つ部屋で保存 保存処理部門では木器保存処理室があり木器は保存処理を待つ間乾燥しないように巨大なプールで水中保存されています。

展示室では奴国が存在したとされる弥生時代と中世博多の出土品が展示されている。
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会議室を昼食に使わせていただき午前中の疲れをとることができました。

午後からは大野城市ふるさと文化財課の林さんに大野城の古代官道沿いを説明していただきました。

木造聖観音立像
室町時代に造られた県指定有形文化財。

旅篭いろはや跡
宿場の面影を残していた旅籠周辺の旅籠(7軒)の中でも一級の建物出会ったと云う。昭和49年取り壊し。

雑餉隈遺跡
弥生時代から江戸時代の複合遺跡、特に江戸時代の磁器(有田焼 伊万里焼)が大量に出土した。中でも輸出用(ヨーロッパ向け)の皿が出土し注目される。

郡境界標
御笠郡と那珂郡の境界石1817年設置、実物は大野城市歴史資料展示室に展示。

お茶屋跡
大名が参勤交代の際に休息した場所、現在は駐車場となっているが門柱に面影が残る。
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春日原停留所・運動場之碑
大正13年(1924年)に開通した九州鉄道の春日原停留所に向かう起点。駅付近は原野を切り開き野球場・運動場・テニスコートなどが造られていた。
     
筒井の井戸
旧筒井村の共同井戸、貝原益軒の筑前国続風土記にも記載がある。村中に筒井として清水あり。木の筒を以て井韓とす。是故に村の名をも筒井と言う也.其水極めて清冽にして大旱といえども枯れず常に筒の上に湧き上がる.只冬至の夜許水出でず云とある。
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新川(運河)
日田街道の西側に沿うように造られた運河跡、福岡藩が年貢米輸送のため1750年開通させたが10年で運行停止となった。昭和62年新川緑地公園として整備された。

石ケ町
新川と牛頸川の接点。蹄鉄屋やうどん屋、駄菓子屋などあり、街道を行きかう人がの多くが休息をとった。

消防ポンプ格納庫
大正時代末期に造られた消防ポンプ格納庫。


午後4時過ぎ水城跡に到着。井上さんに水城跡の説明をして頂きました。
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最後に次回のコース設定の為に参加の皆様にアンケートを記入していただき8時間に及ぶ日田往還博多から水城東門を歩くのコースも終了しました。皆様のご協力有難うました。」
ガイドをお願いした嘉村さん、大野城の林さん、井上さん、板付遺跡弥生館 福岡市埋蔵文化財センターの皆さま及びサポートしてくれた歩かんね太宰府の皆さま有難うました。

NPO法人歩かんね太宰府事務局 最上賢二
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開催日 2016年11月6日(日)
コース名 歴史の散歩道(水城跡~政庁跡)


お客様8名、当方スタッフ4名、快晴の中定刻に西鉄都府楼前駅に集合。
朝の挨拶代わりに、コースの概略説明と同時に「歩かんね太宰府」が無事故で10年目を迎えたお礼とその丸9年の歴史の中で計750回開催し、
9600名のお客様を迎える光栄に浴している旨、感謝の言葉を披露しました。
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併せて「日本遺産」について、福岡県内で唯一の指定をこの「太宰府」が受け、今日はその内5か所を実地に検分出来、且つこの水城から天満宮までの「歴史の散歩道」の周辺は古都大宰府が誇る代表的な史跡が存在し、初めての方には是非お薦めしたいコースです。
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集合後、宰府詣り「一の鳥居」のある関屋に向かい、鳥居・道標について詳しい説明を行いました。
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次に、一昨年「太宰府市民遺産」になった「刈萱の関跡」に案内、ここでは「刈萱道心石堂丸」の悲話を紙芝居要領で披露、皆様の感涙??を誘った事と信じつつ・・・
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本コースの北端となる「水城跡」まで少々汗をかきますが国道を歩き、途中「十三仏」「宝満隠し」「稲子地蔵」の伝承をユーモアたっぷりに前田さんが説明、一同すっかり仲良くなった様です。
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次は本コースのハイライトである「水城跡」、解説は今回初めての井上万寿美さんが担当しました。
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当時の倭国・東アジア情勢の中で、663年の「白村江戦」を位置づけ、築造の目的・工法・規模など、内容もしっかり纏まっており、何よりマイクの使い方が上手くお客様の評価も上々でした。
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次に「旅人の万葉歌碑」から「衣掛神社」を廻りました。
この水城東門付近は当時の官人達の大宰府への出入り口であり、彼等の歓迎・別れの場面があったところで、残されている歌碑は大伴旅人を都に送る場面の歌です。
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次に一昨年、全国を驚かせた戸籍木簡が出土した「国分松本遺跡」を案内しました。
一昨年、全国を驚かせた「戸籍木簡」が発掘された場所で、現在はマンションの下に埋まっています。これが動機でこの上流に未発見の「筑前国府(福岡県庁?)」があったのでは?・・・との説が生まれています。
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以降「筑前国分寺跡」の解説後、「文化ふれあい館」で小休止、最終の「大宰府政庁跡」へ。
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丁度午後から「フルートとピアノのコンサート」が予定されており、その準備に大忙しの状態でした。フルートの岡田庸支子さんは以前岩崎記代子記念館でお世話になった方であり、当然午後コンサートを聞きに来る約束をさせて頂きました。

最後は政庁正殿跡に立ち、当時の風水都市の中核にいる「大宰帥」の気分を味わいました。
当地は奈良・京都の「本社?」に対する「九州支社跡」であり、九州全体の行政を司っていた場所です。四王子山から湧き上がってくる霊気を、全員正殿に立ち身体全体で深呼吸、更なる英気を養って頂き、今日の最終としました。
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今日は格好の日和に恵まれ、適当な散歩になったのでは・・・と当方感じていますが、ご参加の皆さん、如何だったでしょうか?本当にご苦労様でした。


ボランティアガイ:市川舜一記
同行:河辺昌美・前田米蔵・井上万寿美の各氏





 
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開催日 2016年10月21日(金)
コース名 九博のバックヤードと天開稲荷社・光明寺・伝衣塔

10月21日 曇り一時小雨模様、集合場所の西鉄太宰府駅にはお客様12名と歩かんね太宰府サポーター3名、計15名が集合。
参加者は福岡市からの2名を含む筑紫野市4名、太宰府市6名の方々です。
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駅前と参道の歴史の案内では、江戸時代中頃製作された「古地図絵」にて松屋「維新の庵」を中心に当時の旧旅館街を説明、大変興味をもたれました。
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国博通り~秋月藩絵師斎藤秋圃旧宅地跡~光明寺に到る。
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藍染川という美しい名前がついている川で京女梅壷の伝承があります。玉垣に囲まれた中は梅壷侍従蘇生の碑です。
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次の案内地は光明寺。庭園の美しさで知られる臨済宗の禅寺です。前庭は三・五・七の十五の石で”光”の字に配石された九州で唯一の石庭。
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天満宮末社の天開稲荷社。九州では最も歴史のある稲荷社で古い時代から多くの方々の参拝と崇敬を集めています。
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参加の方は、十二鈴参りと正式手水の作法で運が開け、個々の願いが成就するよう参拝されました。
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天開稲荷社境内で集めたいろいろの「松ぼっくり」です。
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最後は天満宮社殿の裏側から「菅公聖廟」対し、仏式作法による参拝をいたしました。
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ボランティアガイド 山崎 記
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開催日 2016年10月16日(日)
コース名 岩崎紀代子さんと川柳カフェ


朝から小雨模様の天気でしたが出発する時間には雨も上がりました。
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観世音寺と戒壇院を回り
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岩崎記代子記念館で川柳を楽しみ、更に特別企画として岡田さん親子のフルート・ピアノ演奏も開催されました。曲目はピアノ演奏はリストの愛の夢 ピアノとフルートの演奏では葉加瀬太郎の情熱大陸を楽しませて頂きました。
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参加者は17名でしたが街歩きあり、川柳を楽しみフルートとピアノの演奏、マッタケのはいった芋煮会まで 盛りだくさんのイベントがあり最後に全員でふるさとを歌って散会しました。
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岩崎先生をはじめ皆さんに大変お世話になりありがとうございました。

川柳作品は下記の通りです。先生から全員に賞品を贈呈されました。

阿蘇の灰 人の小ささ 思い知り
人の世は 嘘で固めて うまくいき
入院を 水杯で 家を出る
万歩計 買ったはいいが 棚の上
定年後 家の中でも 戦力外
岩崎宅 怖さしらずに 書く川柳
知らぬ事 ばかりで威張り 生きている
修行なり 下り坂での 庭いじり
親切も たび重なれば おせっかい
小池知事 目に見えぬ悪 はがせるか
歌姫の 元気もらって もう人肌
お医者さん パソコン見ずに 患者見て
先生は言いよるよ 脳からはみ出した 顔のしわ
喫煙者 肩身の狭い 昨今だ
我が主治医 忘れてませんか 触診を
歩かんね 雨にも負けず 歴史好き

[歩かんね太宰府事務局] 最上賢二
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開催日 2016年10月10日(祝日)
コース名 天満宮周辺のパワースポット


 太宰府天満宮は現在学問の神様として全国的に有名ですが、本殿そのものは菅原道真公のお墓が出発点であり強力なパワースポットです。今回のコースは、敢えて「天満宮周辺」に的を絞り、普段はあまり訪れることの少ないところに焦点を当ててみました。
パワースポットという表現は清田益章氏(*)による和製英語です。英語圏で実際に用いられている例もありますが、日本の影響と思われる。

(*)清田益章:芸名 エスパー清田
1970年代ユリ・ゲラーが評判に話題になった時に、全国的に見出された、いわゆる「超能力少年・女」たちの一人。彼らのほとんどがトリックを暴かれるなどして姿を消していった中で、現在でも彼一人だけが、何らかの形で(その機会はきわめて少ないが・・)メディア出演している。

まずのスポットは光明禅寺の隣接地です。通常はこのエリアでは藍染川の「梅壺侍従蘇生の碑」と「伝衣塔」を説明するエリアですが、それに加えて「御霊大明神」と「千八稲荷」を取り上げてみました。

〇藍染川の「梅壺侍従蘇生の碑」
平安時代には後撰和歌集、伊勢物語などに筑紫なる染川として詠まれている川。また鎌倉時代の女性・梅壺の悲しい恋物語の謡曲「藍染川」の舞台となった場所。
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〇伝衣塔
「天神様が禅の奥義を極めるため一夜のうちに宋に渡り、仏鑑禅師に教えを受けて忽ち悟りを開かれた」という伝説を伝える石塔。
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〇御霊大明神
いつの時代からか、何様を祀るのか知る人もいないのに、馬場地区の人は「ごうれいどん」といって大切にお祀りしています。
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〇千八稲荷
伏見稲荷の祭神を、「稲荷勧請」によって分祠された神社。正式な由緒(時代、だれが、どうして)は不明。
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〇定遠館跡
天満宮の神職であり衆議院議員であった小野隆助が日清戦争で沈没した清国北洋艦隊の旗艦「定遠」を 大本営から許可を得て引き揚げ、艦材にて作った記念館跡。下写真は「定遠」のオールを利用した床下の梁。
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〇大国神社
日本神話の神様「大国主命」と外国の仏様「大黒天」が合祀され、現在我々に親しみ深い「ダイコク様」として祀られている神社。五穀豊穣・災難除け・商売繁栄の神として信仰されています。
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〇太郎左近社
「たろしゃくさま」と呼ばれ、病気平癒の神様として親しまれています。古図によれば天満宮参道の近くにあり、室町以降この地に移されました。奉納されている手形などで患部を撫でお参りをします。
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〇石穴神社
地元の人に「石穴さま」として親しまれている稲荷神社です。菅原道真公に縁ある伝説も伝わっています。奥の院にはもう一柱の「石穴さま」もいらっしゃるとか・・
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〇相輪橖
天台宗の大寺であった安楽寺の唯一の現存物。寺院の塔の屋上にある相輪の部分を地上に立てて塔の代用にしたもの。
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〇本殿東側 摂社・末社群
本殿東側の上段には10の摂社・末社が祀られています。天満宮近くにお住いの古老の方のお話では、子供のころの遊び場だったということです。
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〇誠の滝
10m程の高さから二段になって落ちる人工の滝。天神さまの「誠」にかけて命名されました。
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〇天開稲荷
鎌倉時代末期に京都伏見稲荷大社からの御分霊を宮司邸の邸内社として勧請し、その後現在の地に遷されました。九州では最も歴史ある稲荷神社の一つです。神社の裏手には「奥ノ院」も鎮座しております。
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〇観音堂跡
安楽寺天満宮の仏閣としての観音堂が祭られていた場所。多くの仏像類が放置されている。観音様は現在、五条の西正寺でお祀りされている。
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〇お石茶屋
大正~昭和初め、お石茶屋の江崎イシは美人でかつ男勝りのきっぷで評判となり「お石しゃん」と親しまれ、地元のみならず、多くの有名人がこの茶屋を訪れました。私たちもしばらく休息し梅ケ枝餅をいただきました。美味しかったです。
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〇お石トンネル
「お石しゃん」が遠回りをせずに、自宅から茶店に通えるようにとの心遣いで、筑豊の石炭王麻生太吉がプレゼントしたといわれています。
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〇野見宿祢公碑
『日本書紀』に登場する相撲の神様。菅原道真公の祖先。宮中に仕え天皇の葬儀を司る。殉死にかえて初めて埴輪を採用した人ともいわれています。
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〇本殿裏(北側)摂社群
太宰府天満宮の本殿のすぐ裏手に、菅原道真公の子息四人をお祀りしてあります。
道真公恩師、島田忠臣公を祀る福部社もあります。この島田忠臣公の娘が道真公の奥さん 宣来子(のぶきこ)です。
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〇神馬・白梅号
神々の乗用に供するために神社に奉納された馬。特に白馬の背には神が宿るといわれ、白馬が奉納されることが多いようです。今回は別の場所でお休みの様で不在でした。
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今回実施したアンケートには
 めったに行かないところへ訪問できた喜びや、新しいコースを広げたことに対するお礼などが多く寄せられており、案内した我々一同も胸をなでおろしております。

[ボランティアガイド]石橋、斉藤、杉谷、神吉、井上  
[文責]石橋

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開催日 2016年10月1日(土)
コース名 太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて(東コース)
 後半

客館跡
 西鉄操車場跡地から大宰府条坊内の客館跡と推察される礎石がでてきました。奈良時代の建物 「大型で格式の高い構造を持つ建物2棟(29.5m.×8.8m), (23.8m.×8.8m)で広い床面積を持ち、大人数の宿泊可能な建物」 の跡が出てきました。また、この一帯から佐波里5点(青銅の高級食器)、木札、漆器、唐三彩、加盤(椀を収納する入れ子になった箱)、白玉帯、奈良三彩など正倉院宝物にあるような高級食器類もまとまって出土しました。格式の高い施設、高級食器から想定されることは外国使節の宿泊、食事のための建物(客館)であった可能性が高いと推察されています、律令制度に於いて「金銀装腰帯」が認められているのは貴族で、大宰府での「白玉帯」着用者は、官位相当制からは大宰帥のみです。古代の労役に関する名簿木簡を転用した井戸枠なども発見されました。
732年に「造客館司」という役所が置かれているので、このころ建てられたと推定されています。ここが太宰府客館として機能したのは732年から9世紀前半と考えられています。佐波理とは銅と錫の合金で出来たもののことです。博多湾岸にあった客館・筑紫館はこのころから鴻臚館と呼ばれたのではないかと推定されています。新羅から輸入されたものと推定されています。墨書木札の中には将棋の駒を書いたものが見つかりました。桂馬、香車、歩兵の字が読み取れました。駒は平安時代後期のものだろうと考えられています。将棋は古代インドが起源といわれています。白玉帯は三位以上の官人しか使えないベルトです。佐波理製の皿は正倉院に700枚伝わっているという。

清明の井
 大きな幹が道路に斜めに突き出た榎の下に井戸はあります。案内板もありますが探しにくいです。
平安時代の陰陽師(おんみょうし)安部晴明が開いたという井戸です。どんな旱(ひでり)にも涸れることはないそうです。出産時にこの水を使うと安産できるという言い伝えがあります。祠の中に置かれた三角形の板状の石は水神を表しています。晴明が大宰府に来たという文献はないことより、清明の霊力にあやかった伝説であろうと考えられています。安部晴明は今昔物語に登場します。この榎は市の天然記念物になっていましたが平成27年の台風で大枝が折れました。

鹿嶋神社
 祭神はタケミカヅチノカミです。菊武文右衛門が祀ったことが起こりと伝えられています。文右衛門は鹿島神道流の極意を授かった摂津の国(兵庫県と大阪府の一部を含む畿内)の武士であったため、尊敬する武神の鹿嶋明神を祀ったと考えられています。現在は榎地区の氏子が祀っています。

隈麿公奥都城(くままろこうのおくつき)
 神道でお墓のことを奥都城(おくつき)といいます。菅公の子供のうち、末の息子(隈麿)と娘(紅姫)はいっしょに大宰府に来ました。隈麿は大宰府に来て、翌年に亡くなっています。お墓のそばにある梅は6弁の花をつける梅です。近所の菊池さんがこの梅を世話しておられます。案内板があります。現在の祠は昭和60年に奉納されました。紅姫は父の死後、四国の土佐にいる道真の長男の大学頭(だいがくのかみ)・高視(だかみ)卿のもとへ行ったとも伝えられています。他の兄たちは駿河、飛騨、播磨へ、妻と成長した娘は都に置かれました。

鶴の墓
 榎社門前の踏み切りの傍らにあります。案内板はありません。古ぼけた石があるのみです。
伝説 「飛騨の匠が木で大きな鶴を造りました。あまりに立派に出来たのでこれに乗って空を飛んでみたくなりました。鶴は唐の国まで飛んだ。唐の国で矢を受けた鶴はどうにか帰ってきて、ここに落下した。匠は鶴をここに手厚く埋葬し飛騨へ帰った。」が伝説として残っています。この話は“まんが日本昔ばなし”でも取り上げられました。鶴が不時着したのは通古賀の鶴ノ屋敷小字鶴畑ともいわれ、これと類似した話も伝わっています。

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鶴の墓


浄妙尼祠: 配所の菅公を慰めるために松の葉に麹餅を盛って差し上げるなどいろいろと世話をしたと伝えられる浄妙尼を祀る祠(ほこら)です。

紅姫の供養塔(板碑): 楓社。風化のためよくわからないが、刻まれているのは阿弥陀来迎図あるいは地蔵菩薩像ではないかといわれています。 鎌倉から室町時代のものといわれています。新国道建設のため昭和50年にここに移設されました。父の死後の紅姫の足取りは不明ですが、四国の土佐にいる道真の長男の大学頭・高視(だかみ)卿のもとへ行ったとも伝えられています。紅姫の墓と伝えられる供養塔が二日市北にもあります。そのため一説にはこの供養塔は梅壺(鉄牛円心の母,弁ノ君ともいう)の墓とも言われています。梅壺は出家して尼になったそうです、

伝説 幸橋 大友義鎮(よししげ)(宗麟)が耳川の戦いで島津に敗れると、筑紫広門は龍造寺隆信に呼応して、秋月種実(たねざね)とともに大友陣営の宝満城(戸次道雪)・岩屋城(高橋紹運)を攻めます。このとき紹運の計略に嵌(はま)った秋月が敗走する時に天満宮を焼いています。秋月種実(たねざね)は神罰を恐れ、火を放った部下を捕らえ切腹を命じて罪を謝しています。天正6年12月(1578年)のことですが、その後天正7年1月にも再び筑紫広門は岩屋城を攻めます。広門の領地と高橋陣営の領地は隣接しているので両陣営の兵士は平時は互いに密接な交際をしています。「今日は心置きなく酒を酌み交わすが明日は戦場で互いに主君のために働きましょう」といって世の無常を嘆いていました。この戦いのときに、高橋陣営の臣、関内記の薙刀の鞘が外れていたために隣にいた武将の顎を傷つけたことから「敵が侵入してきているというのにこれを切ることができないで、かえって見方を傷つけるとは何ということだ」と激しく罵られたことから、関内記は敵方に突っ込んで行った。これを機に城内より一丸となって槍を構えて敵陣に切り込んだ。場所は幸橋あたりで、両側沼田で並進できず両軍わずか十数名を出して戦った。関内記と筑紫方の武将も傷つき戦士した。戦いは高橋陣営の勝利に終わり、関内記の子孫が「嗚呼壮烈岩屋城址」を建てた。(吉永正春、筑前戦国史、p108)

冨永朝堂(とみながちょうどう)(1897-1987): 今回はいくつかの作品が作製された事情・状況について、また朝堂がどんな思いで製作に取り組んだのかについてのお話がありました。水も滴る彫像を制作するには人の命の全てを投げ出さなければ出来ないこと、妥協が許されないこと、作品に命が宿らなければならないことなど芸術家の苦しさ・生き様を知ることが出来ました。
朝堂の紹介: 本名は冨永良三郎。福岡市下赤間町に生まれる。「芸術家 冨永朝堂」は太宰府市民遺産です。冨永朝堂は高村光雲、山崎朝雲とつづく日本の代表的な彫刻家で、「観世音寺奉賛会」の発起人となり観世音寺宝蔵の設立に尽力するなど太宰府を生涯愛した芸術家です。西鉄電車が太宰府まで乗り入れるようになった昭和32年に「太宰府美術懇話会」を結成し、九州歴史資料館の着工が始まった昭和45年には「筑紫美術協会」を誕生させ、会員数は最初から60名を越えていました。昭和47年には「筑紫芸術院」を開設しその院長に就任しています。このころ冨永朝堂、古賀井卿(せいきょう)(書家)、小野茂明(しげあき)(日本画家)は「三仙人」と呼ばれていました。太宰府市観世音寺の地にアトリエ「吐月叢」を構え、坂本繁二郎とともに地方から芸術を発信しました。朝堂は自由な創作活動を展開し、日本木彫界に確固たる地位を築きました。作品の中にその人の個性や人生観が込められていなければならないとの思想のもと、参禅、茶禅を修業しています。その作品は、市内には水城小学校の「校歌レリーフ」、学業院中学校の「宮村翁の勤労の姿」、市役所のロビーの巨大な木彫りのレリーフ「西都大宰府」製作の監修、天満宮の延寿王院前の「御神牛」(御神牛の雛形は市長室にあり)、観世音寺の聖観世音菩薩を納めた「厨子」、天満宮の宝物館の「五才の菅公像」があり、作品を身近に鑑賞することができます。代表作「谷風(こくふう)」は福岡市美術館に収蔵されています。この作品は1939年に開催されたサンフランシスコ万博とその翌年に開催されたニューヨーク万博に日本の代表として出品展示されました。「御神牛」は朝堂88歳のときの作品で、朝堂最後の作品となりました。朝堂は地元では「トンナガ・チョーロー先生」と親しみをもって呼ばれ太宰府の風土をこよなく愛し、湧き出る情熱を作品に表わしました。朝堂の弟子の一人に豊福知徳(とものり)がいます。
朝堂の言葉、「天井板をつらぬいて 天然の素中にかえって行くのか」 *素中とは宇宙のこと

●山崎朝雲は福岡市東公園の亀山上皇像を制作しています。となりに日蓮上人像がありますが、日蓮上人像のほうが背が高かったので上皇像の土台を盛り土にしたそうです。亀山上皇は元寇のときの天皇で、台座に「敵国降伏」の願文が銅版にして填め込まれています。また、聖福寺の18羅漢像のうち16体を製作しています。
仏師で彫刻家の高村光雲は上野の西郷像を制作しています。そして詩人で彫刻家の高村光太郎はその息子になります。宮村翁とは宮村吉蔵のことです。page 169を参照。

●「筑紫美術協会」は、市の依頼で市役所の庁舎入口の壁画(動を表わす)と中央公民館ホールの緞帳(静を表わす)の製作を美術協会として請負い、会員全員で製作に取り組みました。(昭和60年)

参考文献
「太宰府の伝説」、藤田敏彦、財団法人古都大宰府を守る会発行、昭和53年
「太宰府伝説の旅」、大隈和子著、財団法人古都大宰府を守る会発行、平成元年

ボランティアガイド 前田記
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開催日 2016年10月1日(土)
コース名 太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて(東コース)
 前半

今日の参加者は好男性4人でした。太宰府の大通りはよく知っているが裏道を知らないのでどんな裏道があるのか興味深深ということで参加されているようでした。天気予報では降水確率30%ということで前日からの雨も止み全員晴れ晴れとした気持ちで出発しました。しかし途中で2回も雨の洗礼を受けました。小雨程度で収まり午後は太宰府恒例の政庁祭りが開催される日よりとなりました。
 天満宮から冨永朝堂の吐月叢までの道沿いには500mも歩くと1つや二つの伝説伝承が残っている散策路となっています。参加者とスタッフ3名が共に歩きながら古を偲び日常から開放された半日を過ごしました。参加者は今までと異なる太宰府の姿を観られたことでしょう。最後に冨永朝堂の作品を鑑賞し作品に込められた息吹をお聞きしました。下記にはこの道沿いに残る伝説伝承を簡単に記していきます。


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大小の彫像が並ぶ吐月叢でのひとこま



●馬場参道
参道の奥に延寿王院があり、ここに三條実美公ら5卿が起居したこと、松屋の前で、江戸時代の末参道での尊皇派と佐幕派の攻防の状況の跡を偲びました。当時の太宰府では桶屋が儲かった、酒とお茶と砂糖の需要が増えたとのことで生き生きとした参道が浮かび上がりました。

維新の庵 松屋: 当時の松屋は旅龍屋で、主人は勤王家として知られていました。そのため勤皇の志士たちがよく集まっていました。主人の栗原孫兵衛は福岡や薩摩、長州の志士と交流があり、彼らをこっそりと支援していました。
庭の歌碑には月照の歌
「言の葉の 花をあるじに 旅ねする この松かげを(は) 千代もわすれじ」と刻まれています。

小鳥居町の恵比寿さま: 太宰府市内には31体の恵比寿さまが祀られています。天満宮の門前町(三条、連歌屋、馬場、大町、新町、五条)では、12月3日早朝に7ヶ所の恵比須さまをお詣りする「えびす七とこまいり」の風習があります。「えびす七とこまいり」は2日の午後3時から飾り付けが始まり、3日の午前6時からお参りが始まり午後には撤去されます。小鳥居小路の恵比寿さまがセンターで、ここで神酒やお札がもらえます。

岩踏川、思川、白川、御笠川
本来この川は御笠川ですが、ここより上流の三条あたりから連歌屋あたりまでを岩踏川(岩淵川)と呼んでいました。五条あたりでは思川という名が残っています。五条から連歌屋までを思川と呼んでいたようですが、ここには白川地区があり白川と思川が重なっていたかもしれません。はっきりした枠はありません。
岩踏川を詠んだ歌に、「うみ山を夕越来れは御笠なる石踏川に駒なつぬなり」 万代集 為頼(ためより)
紫式部の伯父(父母の兄)にあたる藤原為頼(ためより)の歌が岩踏橋のたもとにある岩淵川の石柱に刻まれています。この歌がいつ詠まれたかははっきりしませんが、957年ごろ父雅正に伴って豊前へ下向する途中に太宰府を通ったのかもしれないということで、それであれば為頼(ためより)は17-21歳であったと推定されています。為頼(ためより)は歌人でした。
昔は岩踏橋周辺は大きな岩が岸辺にあり、川中も岩がごろごろと転がり清流が音をたてて激しく流れ、子供やお母さん達の集まる社交場であったといわれています。吉嗣拝山の『太宰府二十四詠』にも名勝地として描かれています。
つまり上流の北谷から北谷川、松川(まつごう)、三浦橋から三条までを岩淵川、連歌屋から岩踏川、五条あたりを思川、観世音寺あたりを白川、それより下流を御笠川、石堂川となりますが、時代とともに呼び方が変わっているといったほうが良いかもしれません。

夜泣き石地蔵堂: 宰府5丁目にある。平たい石があり、その上に夜泣きの赤ん坊を寝かせると夜泣きがなおるといわれていました。

三浦の碑と構口
 三条口の構口は飯塚方面からの入り口である三条のバス停「老人ホーム双葉」の近くにありました。ここら当りは岩踏(あるいは岩淵)と呼ばれていました。明治時代、天満宮安楽寺に参詣したおりには、ほとんどの人が光明寺(渡宗天神),花園(現在の水月庵)、伝衣塔、岩踏(岩淵)の三浦の碑に立ち寄っていたと云われています。
三条の高砂橋(三浦橋)のほとりと五条橋のほとりに三浦の碑があります。三浦の碑は、伊勢の二見浦、紀伊の和歌浦、筑前の箱崎浦の砂を持ってきて、御笠川を清めた行事の記念碑として建てられています。「さいふまいり」が流行したのは天神信仰が流布した江戸時代以降のことになります。
高砂橋の側の「三浦潮井碑」は、碑文から明治13年(1880年)に建てられていますので、以前のものが再造されたと考えられています。この三浦の碑は洪水で流されて行くえ不明になっていたが2003年の洪水で発見されました。

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高砂橋のほとりの三浦の碑


構口(かまえぐち)は4ヶ所ありました。五条小橋(五条口ともいう)、三浦橋(三条口)、五条橋(高橋口ともいう)、溝尻の4ヶ所です。構口とは江戸時代に宿場の出入り口に造られた土塀で、防衛的機能をもっていたと考えられています。二日市方面からの入り口は五条口になります。五条の五差路になっている所に建っている梅大路の道標(追分石)から五条小橋を渡って右側のビルの一角に庚申天(1781年造)と板碑があります。この道路沿いに構口がありました。現在は構え口の遺構も残っていません。

「従是」の石柱は、右はどんかん道へ、左は日田方面へ向うことを示しています。 明治11年に建つこの碑は、一説には西南戦争で各地から集められた官軍兵士のために建てられたといわれています。

安行社
菅原道真に付き添って太宰府まで下って来て、道真の廟堂を建立した。その後、その末裔が天満宮の宮司職を務めています。

庚申塔と猿田彦大神の合碑: 庚申塔と猿田彦大神が1つの石碑の裏表に刻まれている珍しい石碑です。

猿田彦神: 古事記神代の巻に、天孫降臨(天照大神の命を受けて国土統一のため高天原から日向国の高千穂峰に下る)のおりその道案内をされ、無事にニニギノミコトを大八州(わが国)に導かれた神様と書かれています。その高徳により、「導きの神」、「道開きの神」、「道案内の神」となりました。猿の代わりに猨が使われることもあります(佐野浦にある)。猨は大きな猿、手なが猿のことです。

庚申塔: 中国の道教に、「人間の身体のなかに三尸(さんし)という虫がいて、60日ごとに回ってくる庚申の夜、人間を早死させようと、人間が眠っているすきに抜け出して天帝に悪口を告げる。天帝はそれを聞いて人の寿命を決めるが、この日、身を慎んで徹夜すれば三尸は上天することができず、長生きできる」という説があります。これが奈良時代に伝来し、平安時代にさまざまな民間信仰と結びついて広まっていったといわれています。江戸時代には農業神と習合した猿田彦大神(申にちなんで生まれたと思われる)、あるいは道岨神と習合して農耕神として信仰された庚申信仰が全国的に広く盛んになりました。また、青面金剛(しょうめんこんごう)は密教系の庚申信仰で、「庚申尊天」あるいは「帝釈天」と刻まれています。庚申講が組織され、多くの庚申塔や庚申塚が建立されたり、講が行われたりしました。民間信仰には経典教義もないので願望のおもむくままにいろいろのことが変っていきました。庚申の夜は、猿田彦の掛け軸を掛け、掛け軸の前に榊、灯明、賽銭、庚申団子を供え、拍手をうって礼拝していたそうです。さらに人々が集まり徹夜をするためにいろいろな遊びごと(詩歌つくり、碁、双六など)が行われたりし、次第に集落の親睦会になっていきました。(ちくしの散歩その他より)

「梅壺侍従蘇生碑」
 光明寺の横を流れる川中に「梅壺侍従蘇生碑」があります。天満宮の神官に中務頼澄(なかつかさよりずみ)という人がいました。京に上った折に梅壺という京女と懇意になり二人の間に梅千代という男の子が生まれた。頼澄が太宰府へ帰ったあと、梅壺は梅千代を連れて太宰府まで下ってきた。頼澄の正妻は夫を梅壺に会わせまいと決め、母子を太宰府から追い返そうとする。このような仕打ちに悲観した梅壺は子供を残して藍染川に身投げする。梅千代が母の遺体に取りすがって泣いているところへ頼澄が通りがかり、事の成り行きを知った頼澄は一心に梅壺の蘇生を天満天神に祈るのでした。天神様が現れて不思議なことに息を吹き返したということです。さらに詳しく述べますと、
梅壺侍従は太宰府に来て宿をとり、神主宛てに手紙をしたため手紙を宿主に頼む。宿主が神主の家を訪ねて手紙を渡すと妻は宿主の話を聞き、「さてもさても腹立ちや」と神主に偽の手紙をしたためて宿主にいう。「いそぎ女房も子も追い返せ」と、宿主が帰ってそのことを告げると「この子を父に見せ、跡をも継がせばやと思いてはるばる来るに、孤児となす事の悲しさよ」といい藍染川に身を投げてしまう。身投げした梅壺侍従の有様は「顔色は草葉に色、眠りて瞼を開くことなし 紅顔は消えて黒髪は乱れ草根に纏わり、まゆずみも消えて面影も亡き世の果ての有様」であった。かけつけた神主はあまりの不憫さに幣帛(へいはく)を捧げて一心に祝詞をあげると梅壺は蘇生した。やがて梅壺(紅の君ともいう)は尼となり法名(ほうみょう)を如海大姉と称した。梅千代は長じて仏門に入り鉄牛円心と名乗って光明禅寺を建てる。
後段の説明は謡曲「藍染川」のあらすじです。時が経って梅壺は尼に、梅千代はお坊さんになりました。このお坊さんが光明禅寺を建てた鉄牛円心和尚であるといわれています。
 江戸時代中期の「筑紫紀行」には別の伝説もあります。それは、菅公が都に居られたときに召し使っていた女が、菅公が筑紫に下ったのち後を慕って下ってきたが、すでに菅公は亡くなっておられたので悲しみのあまりこの川に身を沈めたという。

伝衣塔(でんえとう)
 鎌倉時代の中ごろ、太宰府の横岳崇福寺に円爾(えんに)という坊さんが住んでいました。ある夜、円爾(えんに)のもとに菅公が現れ禅の教えを請われた。円爾(えんに)は自分にはまだその力量はないので、師である宋の仏鑑(ぶっかん)禅師を紹介した。菅公は一夜にして中国に飛び、仏鑑禅師に教えを請い、たちまち悟りを開かれ、その証に衣をさずけられ持ち帰りました。菅公はすぐに円爾(えんに)のもとに現れその衣を託したと伝えられます。それから30年後、円爾(えんに)の後を継いだ博多承天寺の鉄牛円心和尚のもとに菅公が現れ、預けた衣を一ヵ所に収めて祀ってほしいといわれた。そのお告げのとおり衣を収めた場所が伝衣塔であり、光明禅寺の起こりであると伝えられています。
日中戦争のさなか出征兵士に贈る千人針にこの伝衣塔の苔をむしり、縫いこんだという。菅公が無事に帰ってきた故事にちなんでのことであろう。

どんかん道: 天満宮の神幸祭のときに通る道です。天満宮から榎社までの道です。

西正寺(さいしょうじ): 浄土真宗本願寺派。岩屋城の戦いの高橋紹運方の戦死者の菩提寺です。宰府1丁目1-25にあります。

制札場の跡: 西正寺の東側に制札場がありました。制札場には宿場町内の籠や荷物の運搬料などの料金が書かれており、厳しく取り締まれていました。そのため外部の人や外国人も江戸時代は安心して国内旅行ができたそうです。

井上哲次郎生誕地: 五条で生まれる。神牛塚からどんかん道をさらに天満宮の方へ進み右折してすぐの右側に明治時代の哲学者井上哲次郎(1855-1944)の生誕地の碑があります。井上哲次郎の哲学体系は「現象即実在論」とよばれ、「認識と実在との関係」(1900年)にその大意が示されています。井上哲次郎が東京帝国大学文科大学長のときラフカデイオ・ハーン(小泉八雲、講師)が解雇されるということがあり二人の仲は不運だったそうです。解雇の原因としては外国人の待遇は総長と同額であったこと、外国人には長期有給休暇があったこと、日本の文教政策の転換などが考えられています。その後、ハーン一人分の給料で夏目漱石ら3人を雇用することになりました。ハーンは熊本第五高等中学校赴任の翌年に太宰府を訪れています。哲次郎の師である中村徳山(号は巽軒(そんけん))は「都成塾」を太宰府の自宅で開いていました。

五条一丁目の石造品: 地元ではオダイニッサマと呼んでいたそうです。ここら当たりは1500年代の戦いのときの戦場になり、弔いのために多くの石仏が建てられていました。死者を弔うために禅宗の寺・臨泉庵がありました。近隣の石仏を集めた祠はいくつかあります。案内板はありません。

中村酒屋: 横町に中村酒屋があり、昭和25年まで銘酒「咲くや此の花」を製造していました。その後、「大吟」という酒屋、つづいて「太田屋醤油店」が入っていましたが、昭和58年にその家は湯布院の湯布院館へ移設されました。案内板があります。

中村徳山(1818-)の「都成塾」の跡: 案内板があります。 五条に生まれた漢学者。私塾「都成塾」を五条に開き、近隣の師弟に漢学などを教えていました。太宰府小学、甘木中学思川分校(戒壇院にあった)の教師でした。門下生に井上哲次郎、萱島秀峰などがいます。

神牛塚: 菅公の亡骸を安楽寺まで運んだ牛も帰りがけにここでぱたりと倒れ息をひきとったということです。道際に大正14年に建碑された新しい石碑があります。この石碑は丑年生まれの元太宰府町長が丑年生まれの人々の還暦祝いとして碑を立てたものです。新しい石碑の奥にある何も彫り込んでない自然石の碑が元の神牛塚です。「筑前国続風土記拾遺」に、「牛塚、中町人家の前にあり。野石で俗に菅神の神牛の斃れたるをここに葬るという」と書いてあります。

宝満宮石神: 五条の四ツ角から5軒めぐらいのところに大きな樫の木がありますが、その下の大岩(一部が露出している)が宝満宮石神です。その上に板碑が掛けてあります。竈門神社の頓宮でした。宝満宮のお旅所とも呼ばれています。ここら五条は昔は大都会でした。大勢の人が集まるため、宝満宮まで行かないでここで宝満宮のお参りができるように頓宮がおかれていました。年に一度宝満宮から宮司さんがお祀りに来られます。

金掛け(かねかけ)の梅: 鎌倉時代の古川家は天満宮に関係の深い商工業者六座の一つ米屋座でした。日照りが続き人々は食べるものもなくなり、この惨状を目のあたりにした古川家の当主は自分の全財産を投げ出し、飢えた人々を救ったといわれます。反対に自分の家は家運傾き生活に困るほどであったという。そこで天神様に家運の再興を一生懸命祈ったところ、ある夜、当主の枕元に白髪の老人が現れて、「庭の梅の木に黄金の入った袋を掛けておく故、夜が明けたらこれを取り、経済を立て直せ」と告げられたという。それから再び古川家は栄えたという。三条実美が金掛けの梅にちなんで詩歌を詠んでいます。
「梅ヶ枝にかかる黄金の花もまた 根にや帰りてや咲き出ずるらむ」 三条実美公
ここは、東の京極にあたります。そのためここ左郭12坊の溝の発掘調査では、牛、馬、犬、猫の死骸が見つかっています。猫の死骸が出たことより、平安時代に猫がいたことがわかりました。当時、猫がいたところは全国で2ヶ所しか見つかっていないということです。

古川家の神木: 太宰府郵便局前の2本のムクノキは古川家の神木でした。

やんぶの墓: 五条駅前にある佐賀銀行の玄関右側にあります。 山伏の行き倒れの墓と云われています。山伏にとっては、ここが宝満山での修業の出発地点でもありました。住民の方々のお供えが今も絶えません。案内板はありません。当時の山伏は諸国を行脚して地方の事情に精通していました。

血方持(ちけもち)観音
 どんかん道のそば、榎の根元に祀られています。醍醐天皇(897~930在位)の時代、府中宇佐町の役人宮成(みやなり)某の奥さんが婦人病で苦しんでいるある夜、菅公さまのお告げがあり、薬の作り方を教えられたそうです。そのとおりに薬を作り服用して、元気になったことより古川家の家伝薬になりました。奥さんが亡くなってから墓を建てたところ、婦人病に悩む人がお詣りするようになったということです。

後半へつづく


ボランティアガイド 前田記
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開催日 2016年9月25日(日)
コース名 天神様のご心霊に捧げる神事千灯明


朝からの小雨模様で心配されましたが雨も降らずに無事開催することが出来ました。
秋のコース全23コース中夕方から開催される唯一のコースです。
午後5時半に西鉄五条前に集合しどんかん道を通り天満宮の参道「維新の庵」松屋までのコースです。
総勢22名で案内役は太宰府市役所文化財課の高橋さんにお願いしました。
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同日には太宰府市で観世音寺・政庁跡など各地域で「古都の光」の催しが開催されています。天満宮では千灯明の神事が開催されました。


*五条駅界隈
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梅大路道標 宰府参りの街道を示す大きな石碑です。

やんぶの墓 山伏の行き倒れの墓と言われています。山伏にとってここが宝満山での修行の出発点でもありました。 

            
*五条交差点から天満宮駐車場への道
金掛天神 私財を投げ出して飢饉を救った古川家が困窮した折、夢に老人が現れて庭の梅の枝に黄金の袋を掛けておくと告げて、子孫を救ったと伝えられています。
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神牛塚 道真公の亡がらを運んだ牛は、その帰り力尽きてここで倒れて死んだので、人々が憐れんで供養した所と伝えられています。

中村酒店 横町に中村酒店があり昭和25年まで銘酒「咲くや此の花」を製造、昭和58年この家は湯布院に移設されました。

井上哲次郎 明治時代の哲学者井上哲次郎の生誕地の碑があります。東京大学の初代の哲学教授で日本の倫理、道徳の基礎体系を構築しました。

制札場 藩の法令などを告知するために制札場が置かれておりた宿場町内の籠や荷物の運搬料などの料金が書かれており厳しく取り締まられていました。

西正寺 1586年島津と岩屋城で戦い玉砕した高橋紹運以下763名の霊を弔う菩提樹。玉砕の前夜、紹運は部下の藤内重勝に因果を含め脱出させ菩提を弔うよう頼みました。藤内は僧侶となり西正寺を建立し今も毎年7月27日には子孫が集まり法要が行われます。
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*参道
維新の庵松屋 当時の松屋は旅籠屋で勤王屋として知られており主人の孫兵衛は福岡や薩摩、長州の勤皇の志士達と交流が深く彼らを支援していました。薩摩藩の定宿として大勢の勤皇の志士たちが出入りしていた。大野屋は長州藩、泉屋は土佐藩の、日田屋は天領の定宿でした。
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*千灯明 
25日夜心字池の周りに千本の灯明がともされます。池の上には舞台が設けられ、神楽が舞われます。
午後6時過ぎ制札場付近で暗くなって持参した提灯に明かりを灯し、通りに置かれた提灯の中を歩いて行くというほっかりとした気持ちも味わうことが出来ました。
「維新の庵」松屋さんではよもぎの梅ケ枝餠のいただき午後7時過ぎに解散しました。
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このコースに参加された皆様のご協力により無事終わることができました。ありがとうございました。特に市役所の文化財課高橋様、「維新の庵」松屋様には特別のご配慮いただきありがとうございました。

ボランティアガイド 最上記
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開催日  2016年9月22日(祝木) 
コース名 「特別企画  日本遺産って何ですか?」


昨年度文化庁から太宰府遺跡群が「西の都太宰府」として「日本遺産」に認定されました。
当会ではそれを記念して 「日本遺産」って何だろう?をテーマに多くの皆さんに知ってもらおうと特別企画として当市教育委員会文化財課の井上信正さんに解説をお願いし秋のコースのトップに設定しました。同氏は 文化財行政の中軸でもあります。

集合地の西鉄二日市駅にお客様25名スタッフ13名都合38名の大部隊が集まりました。
当日は生憎曇り空ながら 午前中は何とか・・・と願いながら総括説明を聞きました。
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日本遺産とは?単体遺跡ではなく相互に関連するストーリーが対象との今日の全体遺跡の概略説明があり、次の客館跡地に進みました。
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看板を説明しながら鴻臚館との関連・建物配置等からの推測、その意味で又まだ未発掘の線路西側への期待が持たれます。  
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次は王城神社、大宰府の条坊制は長安方式で政庁が北の中心にありますが周礼方式では当地が中心になり、その真南が基山となる由、
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あと付近にある飛梅の原木と伝承を聞いて
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榎社に引き返し左遷された道真公が足かけ3年過ごしたと言われる南館の説明を受けました。
場所は朱雀大通りに面し条坊でいえば4区画(約180m×約180m)の面積を持つ屋敷跡で、幽閉されたと言われていますが、結構広くて良い場所にあった様です。

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往時の朱雀大路を歩き、御笠川を渡ったところにあった朱雀門の礎石を見た後、蔵司の建物跡に進みました。
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蔵司は兎に角 謎の多い区画で地名から倉庫跡だろうと言われてきましたが、今回発掘された建物の用途もまだ結論が出ていません。
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今回井上説では政庁の賓客に対する供応の場所だったのでは・・・との説を拝聴しました。少なくともこの付近の建物が倉庫ではないのは確実な様です。 只 供応施設なら食器類・厨房器具類の発掘が待ち遠しいところです。九歴さんの発掘はまだまだ続きそうなのでその成果を期待しましょう・・・。
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最後は政庁の南大門・中門を経て、往時の玄宗皇帝の使者に倣い政庁中央を歩き
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正殿跡に全員集まり仕上げの解説を拝聴しました。同時に皆様から自然発生的に井上氏に対し感謝の拍手が贈られました。
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最後は「歩かんね太宰府」の恒例である正殿での霊気体感を冨永理事長の音頭で行い正殿から吹き上がる大野山の霊気を胸一杯吸って頂き、今日最後シメとさせて頂きました。皆様 如何でしたか?お疲れ様でした・・・・。
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2016.9.22 ボランティアガイド 市川記
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