コースNo.13 太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて(東後半)

開催日 2016年10月1日(土)
コース名 太宰府の隠れた伝説と伝承を尋ねて(東コース)
 後半

客館跡
 西鉄操車場跡地から大宰府条坊内の客館跡と推察される礎石がでてきました。奈良時代の建物 「大型で格式の高い構造を持つ建物2棟(29.5m.×8.8m), (23.8m.×8.8m)で広い床面積を持ち、大人数の宿泊可能な建物」 の跡が出てきました。また、この一帯から佐波里5点(青銅の高級食器)、木札、漆器、唐三彩、加盤(椀を収納する入れ子になった箱)、白玉帯、奈良三彩など正倉院宝物にあるような高級食器類もまとまって出土しました。格式の高い施設、高級食器から想定されることは外国使節の宿泊、食事のための建物(客館)であった可能性が高いと推察されています、律令制度に於いて「金銀装腰帯」が認められているのは貴族で、大宰府での「白玉帯」着用者は、官位相当制からは大宰帥のみです。古代の労役に関する名簿木簡を転用した井戸枠なども発見されました。
732年に「造客館司」という役所が置かれているので、このころ建てられたと推定されています。ここが太宰府客館として機能したのは732年から9世紀前半と考えられています。佐波理とは銅と錫の合金で出来たもののことです。博多湾岸にあった客館・筑紫館はこのころから鴻臚館と呼ばれたのではないかと推定されています。新羅から輸入されたものと推定されています。墨書木札の中には将棋の駒を書いたものが見つかりました。桂馬、香車、歩兵の字が読み取れました。駒は平安時代後期のものだろうと考えられています。将棋は古代インドが起源といわれています。白玉帯は三位以上の官人しか使えないベルトです。佐波理製の皿は正倉院に700枚伝わっているという。

清明の井
 大きな幹が道路に斜めに突き出た榎の下に井戸はあります。案内板もありますが探しにくいです。
平安時代の陰陽師(おんみょうし)安部晴明が開いたという井戸です。どんな旱(ひでり)にも涸れることはないそうです。出産時にこの水を使うと安産できるという言い伝えがあります。祠の中に置かれた三角形の板状の石は水神を表しています。晴明が大宰府に来たという文献はないことより、清明の霊力にあやかった伝説であろうと考えられています。安部晴明は今昔物語に登場します。この榎は市の天然記念物になっていましたが平成27年の台風で大枝が折れました。

鹿嶋神社
 祭神はタケミカヅチノカミです。菊武文右衛門が祀ったことが起こりと伝えられています。文右衛門は鹿島神道流の極意を授かった摂津の国(兵庫県と大阪府の一部を含む畿内)の武士であったため、尊敬する武神の鹿嶋明神を祀ったと考えられています。現在は榎地区の氏子が祀っています。

隈麿公奥都城(くままろこうのおくつき)
 神道でお墓のことを奥都城(おくつき)といいます。菅公の子供のうち、末の息子(隈麿)と娘(紅姫)はいっしょに大宰府に来ました。隈麿は大宰府に来て、翌年に亡くなっています。お墓のそばにある梅は6弁の花をつける梅です。近所の菊池さんがこの梅を世話しておられます。案内板があります。現在の祠は昭和60年に奉納されました。紅姫は父の死後、四国の土佐にいる道真の長男の大学頭(だいがくのかみ)・高視(だかみ)卿のもとへ行ったとも伝えられています。他の兄たちは駿河、飛騨、播磨へ、妻と成長した娘は都に置かれました。

鶴の墓
 榎社門前の踏み切りの傍らにあります。案内板はありません。古ぼけた石があるのみです。
伝説 「飛騨の匠が木で大きな鶴を造りました。あまりに立派に出来たのでこれに乗って空を飛んでみたくなりました。鶴は唐の国まで飛んだ。唐の国で矢を受けた鶴はどうにか帰ってきて、ここに落下した。匠は鶴をここに手厚く埋葬し飛騨へ帰った。」が伝説として残っています。この話は“まんが日本昔ばなし”でも取り上げられました。鶴が不時着したのは通古賀の鶴ノ屋敷小字鶴畑ともいわれ、これと類似した話も伝わっています。

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鶴の墓


浄妙尼祠: 配所の菅公を慰めるために松の葉に麹餅を盛って差し上げるなどいろいろと世話をしたと伝えられる浄妙尼を祀る祠(ほこら)です。

紅姫の供養塔(板碑): 楓社。風化のためよくわからないが、刻まれているのは阿弥陀来迎図あるいは地蔵菩薩像ではないかといわれています。 鎌倉から室町時代のものといわれています。新国道建設のため昭和50年にここに移設されました。父の死後の紅姫の足取りは不明ですが、四国の土佐にいる道真の長男の大学頭・高視(だかみ)卿のもとへ行ったとも伝えられています。紅姫の墓と伝えられる供養塔が二日市北にもあります。そのため一説にはこの供養塔は梅壺(鉄牛円心の母,弁ノ君ともいう)の墓とも言われています。梅壺は出家して尼になったそうです、

伝説 幸橋 大友義鎮(よししげ)(宗麟)が耳川の戦いで島津に敗れると、筑紫広門は龍造寺隆信に呼応して、秋月種実(たねざね)とともに大友陣営の宝満城(戸次道雪)・岩屋城(高橋紹運)を攻めます。このとき紹運の計略に嵌(はま)った秋月が敗走する時に天満宮を焼いています。秋月種実(たねざね)は神罰を恐れ、火を放った部下を捕らえ切腹を命じて罪を謝しています。天正6年12月(1578年)のことですが、その後天正7年1月にも再び筑紫広門は岩屋城を攻めます。広門の領地と高橋陣営の領地は隣接しているので両陣営の兵士は平時は互いに密接な交際をしています。「今日は心置きなく酒を酌み交わすが明日は戦場で互いに主君のために働きましょう」といって世の無常を嘆いていました。この戦いのときに、高橋陣営の臣、関内記の薙刀の鞘が外れていたために隣にいた武将の顎を傷つけたことから「敵が侵入してきているというのにこれを切ることができないで、かえって見方を傷つけるとは何ということだ」と激しく罵られたことから、関内記は敵方に突っ込んで行った。これを機に城内より一丸となって槍を構えて敵陣に切り込んだ。場所は幸橋あたりで、両側沼田で並進できず両軍わずか十数名を出して戦った。関内記と筑紫方の武将も傷つき戦士した。戦いは高橋陣営の勝利に終わり、関内記の子孫が「嗚呼壮烈岩屋城址」を建てた。(吉永正春、筑前戦国史、p108)

冨永朝堂(とみながちょうどう)(1897-1987): 今回はいくつかの作品が作製された事情・状況について、また朝堂がどんな思いで製作に取り組んだのかについてのお話がありました。水も滴る彫像を制作するには人の命の全てを投げ出さなければ出来ないこと、妥協が許されないこと、作品に命が宿らなければならないことなど芸術家の苦しさ・生き様を知ることが出来ました。
朝堂の紹介: 本名は冨永良三郎。福岡市下赤間町に生まれる。「芸術家 冨永朝堂」は太宰府市民遺産です。冨永朝堂は高村光雲、山崎朝雲とつづく日本の代表的な彫刻家で、「観世音寺奉賛会」の発起人となり観世音寺宝蔵の設立に尽力するなど太宰府を生涯愛した芸術家です。西鉄電車が太宰府まで乗り入れるようになった昭和32年に「太宰府美術懇話会」を結成し、九州歴史資料館の着工が始まった昭和45年には「筑紫美術協会」を誕生させ、会員数は最初から60名を越えていました。昭和47年には「筑紫芸術院」を開設しその院長に就任しています。このころ冨永朝堂、古賀井卿(せいきょう)(書家)、小野茂明(しげあき)(日本画家)は「三仙人」と呼ばれていました。太宰府市観世音寺の地にアトリエ「吐月叢」を構え、坂本繁二郎とともに地方から芸術を発信しました。朝堂は自由な創作活動を展開し、日本木彫界に確固たる地位を築きました。作品の中にその人の個性や人生観が込められていなければならないとの思想のもと、参禅、茶禅を修業しています。その作品は、市内には水城小学校の「校歌レリーフ」、学業院中学校の「宮村翁の勤労の姿」、市役所のロビーの巨大な木彫りのレリーフ「西都大宰府」製作の監修、天満宮の延寿王院前の「御神牛」(御神牛の雛形は市長室にあり)、観世音寺の聖観世音菩薩を納めた「厨子」、天満宮の宝物館の「五才の菅公像」があり、作品を身近に鑑賞することができます。代表作「谷風(こくふう)」は福岡市美術館に収蔵されています。この作品は1939年に開催されたサンフランシスコ万博とその翌年に開催されたニューヨーク万博に日本の代表として出品展示されました。「御神牛」は朝堂88歳のときの作品で、朝堂最後の作品となりました。朝堂は地元では「トンナガ・チョーロー先生」と親しみをもって呼ばれ太宰府の風土をこよなく愛し、湧き出る情熱を作品に表わしました。朝堂の弟子の一人に豊福知徳(とものり)がいます。
朝堂の言葉、「天井板をつらぬいて 天然の素中にかえって行くのか」 *素中とは宇宙のこと

●山崎朝雲は福岡市東公園の亀山上皇像を制作しています。となりに日蓮上人像がありますが、日蓮上人像のほうが背が高かったので上皇像の土台を盛り土にしたそうです。亀山上皇は元寇のときの天皇で、台座に「敵国降伏」の願文が銅版にして填め込まれています。また、聖福寺の18羅漢像のうち16体を製作しています。
仏師で彫刻家の高村光雲は上野の西郷像を制作しています。そして詩人で彫刻家の高村光太郎はその息子になります。宮村翁とは宮村吉蔵のことです。page 169を参照。

●「筑紫美術協会」は、市の依頼で市役所の庁舎入口の壁画(動を表わす)と中央公民館ホールの緞帳(静を表わす)の製作を美術協会として請負い、会員全員で製作に取り組みました。(昭和60年)

参考文献
「太宰府の伝説」、藤田敏彦、財団法人古都大宰府を守る会発行、昭和53年
「太宰府伝説の旅」、大隈和子著、財団法人古都大宰府を守る会発行、平成元年

ボランティアガイド 前田記
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